半年付き合った彼女と別れたのはクリスマス・イブの夕暮れ時のことだった。
冬休みに入る直前の放課後、その日は部活動で残る生徒もいなかった。
早足で帰り始める同級生たちを横目に、誰もいない教室を探して上履きをキュッキュッと鳴らしながら廊下を歩いた覚えがある。
人目を避けるように滑りこんだ教室で、窓の向こうに広がる真っ白な雪景色を背景に、彼女は電気も点けずに座っていた。
――最後に何を話したかは覚えていない。
とにかく、暖房の消えた教室の肌寒さとか、やけに大きく聞こえた上着の衣擦れの音とか。
雪化粧を含んだ北風が窓をきしませていた音が印象に残っている。
隣同士の席に座ってしばらく話して、そこで僕たちは正式に別れることになり、ふたり別々のタイミングで学校を後にした。
帰り道はとても静かだった。
そうしてひとり静かな冬休みを過ごした僕はやがて進学し、都会で一人暮らしを始め、資格を取って就職した。
あっという間の出来事だった。
なんだかんだで、また彼女と再会する機会はあると思っていた。
街を歩いていればあの時の彼女が遠くのほうからやってくるような気がしたし、
別にやり直すとまではいかずとも、また一緒に時間を過ごすくらいのチャンスなんていくらでもあると思っていた。
しかし結局、そんなことはたったの一度も起きることもなく、いつの間にか三年か四年くらい時が過ぎていて、僕は仕事中にとつぜん『もうあの時の時間は取り戻せないんだ』と理解した。
その時に人生で初めて、年を取るということはできることが減っていくということだと肌で実感したのだ。
もう、彼女といっしょに時間を過ごすことはできないのだと……。
それからさらに五年が経って、なぜか突然、彼女本人が僕の前に現れた。
彼女は、曇った窓の向こうを眺めてから、ゆっくりと口を開いた。
「久しぶり」
「……久しぶり」
「学生だったときと変わってないね」
「……そっちは、前とは全然違ってる」
「そりゃあ変わりますよ」
彼女は静かに笑って、改めて僕の立ち姿をじっくりと眺めはじめた。
「似合ってるね、その恰好」
「仕事着だからね」
「すごく頼もしく見えるよ」
「そりゃよかった」
「今日、クリスマス・イブなのに休まないんだ」
「緊急の場合があるからね」
「ちょっとくらい休みなよ。ひどい顔してるよ?」
「じゃあ君はどうなるのさ」
「そういえば、私たちが別れたのもクリスマス・イブだったよね」
「聞けよ」
彼女はおかしそうに笑って、窓の外に視線を移した。
真っ白な雪景色にオレンジ色の暖かそうな電灯の光がぽつぽつと頭を垂れていて、その下をカップルらしき人影が通っていく。
「もう一回くらい、ああやって二人で並んで歩いてみたいよね。
雪で湿ったマフラーに顔うずめてさ、ほっぺた赤くしながら……」
「…………」
「……あのさ、イエス・キリストってクリスマスの日に生き返ったんだよね」
「そうだっけ?」
「あれ、違った?
まあいいや。
とにかく、キリストさまみたいにさ――」
彼女はゆっくりと首を回した。
「――わたしを生き返らせてくれない?」
そう言って彼女は、げっそり痩せた頬でいたずらっぽく笑った。
彼女の骨と皮だけの指には血中酸素を測る軟らかい機械装置がつけられ。
すぐそばには点滴台が携えられており。
きれいだったはずの髪の毛がなくなった頭部に、フルーツキャップみたいな網目状のスポンジをつけて。
真っ白で清潔に保たれた病室のベッドの上で、彼女は静かに佇んでいた。
「なんで今さら来たんだよ」
僕は息をつきながら言った。
「ごめんね」
彼女は伏し目がちに弱く笑った。
僕の担当する病棟に彼女が運ばれてきたとき、病状は手術でどうにかできるギリギリの段階まで進んでいた。
僕はさらに息をついて、所在なさげにたたずむ彼女を見下ろす。
言いたいことはそれなりにたくさんあったはずだけど、元恋人として話せばいいのか、それとも執刀医として話せばいいのか分からなくて、僕はひどく事務的に手術の流れを説明して彼女に背を向けた。
手早く準備を終えて、ゆったりとしたテンポのクラシック音楽が流れる手術室で彼女を迎えたとき、僕はささやかれた。
「別にあなたにだったら殺されてもいいんだけど」
「馬鹿なこと言うなよ」
僕は彼女を持ち上げた。
そしてついさっきまで人が寝ていたみたいな暖かさが維持されている手術台へと寝かせ、水色のゴム手袋を装着する。
僕の姿を見て微笑んでいる彼女から視線を外し、麻酔の注入を指示。
それから数十秒もしないうちに、彼女は嘘みたいに意識を失った。
穏やかに眠る彼女の顔を見て、僕は静かに言った。
「それでは、開始します」
六時間におよんだ大手術は、徒労に終わった。
腫瘍はすでに別の部位に転移して、手術ではどうにもできなくなっていた。
僕の腕では完治させることはできなかった。
周りの人たちは「先生の腕でもダメなら仕方ない」と言ってくれたけど、どうなのだろう。
知人の手術をするということに動揺してしまったのか、まだ僕の技術が足りてなかったのか、それとももう病気が進行しすぎていたのか……。
――それから彼女は別の病棟に移されて、そこでステージが進んでしまったらしい。
おととい亡くなったと、最期を看取った医師の知り合いから聞かされた。
僕は街角の奥から「彼女が来るんじゃないか」と想像することさえ、できなくなった。
にもかかわらず仕事が止まることはなく、クリスマス・イブの日は変わらず僕に巡ってきた。
あれからも手術の経験を積み続け、技術を磨くことになってしまった僕は、いつの間にかその道での「神様」ということになっていた。
でも……。
雪の降る街を彩っているイルミネーションを眺めながら、僕は考えた。
――どこまでいっても、僕はべつに神様なんかじゃないし、
彼女はイエス・キリストじゃなかったのだ。