第七十七話 変異の赤目人

 頬にあたる暑い風と、視界に移る砂丘がどんどん後ろへ流れていった。

 サァァァと爽やかな音を立てながら砂地を疾走していくのはなかなかに気分が良いものだった。涼しい日陰の内側に座って、前方から流れてくるぬるい風にさらに快楽を見出そうとする。

 豚人ゴエ族の集落で買った舟と、メレクウルクが捕まえてきた砂魚の組み合わせによる「魚そり」は、思いのほか早いスピードで砂漠を移動していた。普通に歩くのとは比べ物にならない快適さである。
 しかも、管のように上部を覆う屋根までついているので、頭のてっぺんが焦げるような感覚を味わうこともない。舟の後方に腰かけて静かに後ろの景色を眺めていたエフィールとは対照的にスロウは内心かなりはしゃいでいた。

 しかし、やはりそれも最初のうちだけ。
 数時間も似たような風景が続けばさすがに飽きてくる。
 ひとしきり砂漠の舟での旅を楽しんだあとは、こちらに背中を向けて座っている男に話しかけた。

「メレクウルク、質問の件なんだけど……。
 『ミラ・ヘリオス』という名前の追放者と、『龍剣』という剣術について知らないか?」

 メレクウルクは舟の前のほうの、いわゆる御者台みたいな位置に陣取って砂魚の手綱を引いている。そこだけは屋根が届かず思いっきり日差しがあたっているが、腕輪の魔法道具を装着した彼はやはり何ともないのだろうか、涼し気な様子だった。

 そんなメレクウルクがこちらをくるりと振り向いたとき、彼の眉間には盛大にしわが寄っていた。

「……知らん。
 どちらの単語も、私は聞いたこともない」

 ――どうやら、これに関しては本当に何も知らないらしい。

 とりあえずミラという人物について分かっていること……まあ、女性であるとか、追放者と呼ばれていたとかその程度のことだけだが、それらを教えてもやはり「知らん」としか返ってこなかった。

「じゃあ、龍剣は? ミラって人もその剣術の使い手だったみたいなんだけど」
「どんな剣術だ? 特徴は?」
「えーと、回転切りが基本で――ああ、そうだ。
 水の太陽と似たような技がある」

 そう、これも気になっていたことだ。

 スロウは舟に積み込んでいた土の陶器のふたを外し、能力を発動して水の像――名称は『水霊みずれい』だったか、それを一体召喚する。陶器の中から巻き上がった水の集合体はすぐに形を整えて、四本足の魔物の姿をとった。

 それを見て、メレクウルクは得心がいったように「ああ」とつぶやいた。

「水の太陽というのは、『マナナ=ナルパ』のことか」

 どうやらこっちの世界ではそう呼ばれているようだ。
 空に浮かんでいるとか、巨大な水球をまとっているとかの特徴を言い合って、同じ魔物のことだと確認する。

「……数百年前にはすでに存在していたものだ。
 そうか、貴様らの世界にも現れるのか」
「あの魔物については何か知ってる?」
「いいや。
 貴様の言う龍剣とやらも、やはり私に思い当たることは無い。
 ――イストリアでも数多の剣術があったが、そのような流派は無かったはずだ。
 あるいは、ごく少数にしか伝わっていない技術だったのかもしれぬ」

 メレクウルクは前を向き、手綱を握り直しながら続けた。

「ミラ、と言ったか。そやつが追放者と呼ばれていたなら、おそらくは私のに追放された可能性が高いだろう。異世界に追い出されるほどの大罪人など、そう何人もいないからな。
 龍剣とやらも、私が追放された後にイストリアで編み出されたものではないか」
「あー……」

 なるほど、それもあるかもしれないな……。
 ……でも、だから何だ、みたいな話になりそうだ。
 結局、それ以上のことは何もわかってない。
 水の太陽の正体も、龍剣の正体も、ミラという人物についても、何一つ不明なままだ。

「うーん……これ以上考えても仕方ないか。
 もとの世界に戻れれば、きっとデューイから何か聞けるだろ」

 涼しい日陰の下で身体を伸ばしながら、代わり映えのしない砂漠の景色に目を移したのだた。

 それからは、暇つぶしでいろんな話を聞いた。

 例えば、言語の話。
 どうやって自分たち『異大陸人』の言葉を学んだのかと聞くと「貴様らと同じように転移してきた者がいた」と言っていた。その人物は、元の世界で遺跡を探索している時にいつの間にか砂漠に迷い込んでいたという。
 数百年前のことだというが、その頃はまだメレクウルクは正気を保てていたとのことだ。半不老不死の呪いで気がおかしくなる前に習得してしまったらしい。よく今まで忘れずにいたもんだ。

 イストリアの言語のことも聞いてみたが、そっちは話したくもないと言っていた。長い時が経つにつれて、自身を追い出した故郷が憎くなっていると、彼はつぶやいていた。

 日が傾き、急激に冷える夜を迎えてからは舟を止めた。「雑魚・・にも休息は必要だ」とはメレクウルクの言だ。舟を引いていた小さい砂魚の群れは地面の中に潜っていた。

 月の青い明かりに照らされながら準備していたヘビの干し肉を食べ、土の陶器から水をすくって飲んだあとは各々好きな場所で休みをとる。スロウは舟の内部に寝転がり、メレクウルクは眠気を感じられないのか退屈そうにどこかへと行ってしまい、エフィールは外から舟に寄りかかって眠っていた。

 目をつぶっていると、飼いならした砂魚たちが潜っているあたりから砂粒のこすれる音が聞こえてくるだけで、それ以外には何もなかった。風も無いし、虫の鳴く音もしない……。

 静かすぎる夜にしばらく眠れないでいると、エフィールが動く気配がしたので、ぼんやりと耳を澄ませる。
 衣擦れの音はやがて舟の下から上へと移り、見上げた屋根の向こうから軽い着地音が聞こえた。重力魔法を使って場所を変えたようだった。……見張りでもしているんだろうか?
 彼女は身じろぎ一つする気配もない。

 すぐにまた静かな闇が両耳を包み込んできて、スロウはいつの間にか深い眠りに落ち――そして気が付いたらすでに絢爛たる日差しのもとで舟は動いていた。

 心地よい振動とともにザアアァァ、と砂漠を滑る音が聞こえてくるなかで、メレクウルクは昨日と同じように舟の前面で手綱を引き、エフィールもまた昨日と同じように舟の後方で後ろの景色を静かに眺めていた。

 旅の途中、メレクウルクとはよくしゃべった。やはりこの男は見た目よりもおしゃべりで、話しかければちゃんと返事が返ってきた。

 二人がぽつぽつと会話を続けているのを、エフィールが少し離れたところで聞いている、というのがこの三人の距離感だった。

 砂嵐には遭遇しなかった。
 どうやらこの砂魚のそりのスピードよりも遅いらしいので、万一遭遇しても簡単に逃げ切れるという。また土竜のごとく地面を掘る必要があるかと思ってたが、どうやらそれは杞憂だったようだ。
 加えて魔物もほとんど現れず、戦闘になるような場面はほとんどなかった。

 逆によく遭遇したのは、魚骨の仮面族だ。自分たちが砂漠に転移した直後に襲われたあの小人たちである。
 『ギ・エンパ族』という名前らしい。メレクウルクによると数百年前にはいなかった種族だそうだ。

 さすがにこの砂魚のそりにはついて来れないだろうとたかをくくっていたら、やつら、一人ひとりが砂魚を乗りこなして猛スピードで迫ってきた。

 でも、エフィールに狙撃されてあっけなく砂漠の海に沈んでいた。ちょっとかわいそうだと思った。手加減されていたのか死傷者はいなかったみたいだが……なんかごめんな。

 そうして、何もない砂漠を渡り続けて、一週間が経ったころ。

「――街が近い」

 メレクウルクは、唐突にそうつぶやいたのだった。

「……何で分かったんだ?」
「においがする」

 においってどういう……と、聞こうとした瞬間、スロウの鼻孔にも何かが伝わってきた。
 なんかこう、独特な、むわっとしたにおいだった。なんと表現したらいいのか分からない。
 だが、今までの乾ききった砂漠のど真ん中では感じなかった、どこか湿気を含んだにおいだった。ただ砂が焼けるだけのにおいとは違う。

 ついにこの代わり映えのしない景色から解放されると理解して、思い切り伸びをした。

「やっ、とかぁ……」
「数百年前と変わっていなければ、オアシスには貴様らと同じ異大陸人もいるはずだ」

 おお、そうか、ついに同じ人間と出会えるのか。
 メレクウルクは半分人間辞めさせられてるようなもんだから数えないとして……同じ異大陸人ならきっと言葉も通じるだろう。情報収集は格段にやりやすくなるはずだ。
 まだ見ぬ街に期待を寄せながら、頬に触れるぬるい風にほほ笑んだ。

「……じゃ、あたしは外で待ってるわ」

 ふと舟の後方から控えめな声が聞こえた。
 首を回すと、エフィールは赤い短髪を風になびかせて後ろの景色を眺めていた。

「どうして? 外だと不便だろ?」
「……あたしの素性を忘れたの。
 魔人が街に入れると思う?」

 あ、と自らの失言に気がつく。
 そうだった。魔人は人から恐れられている。
 これから入ることになる街は、彼女にとっては期待どころか、不安が残る場所なのだ。

 ……そこで、メレクウルクが背中を向けたまま質問してきた。

「魔人? 魔人とはなんだ」
「ああ、水の太陽の雨水を飲んで、重力を操れるようになった人のことだよ。
 こっちではそういう人はいないのか?」
「……『変異の赤目人あかめびと』のことか」

 おお、やっぱり魔人もこの世界に存在するのか。
 ……いや、水の太陽がいるんだから、いるのも当然か。

「名前が何であろうと、魔人は敵でしょ。
 あの化け物と同じ力を持ってるやつなんて、嫌われて当然よ」

 そこでエフィールは、はっとスロウのほうを見て「ごめんなさい、そういうつもりじゃ……」と謝った。水霊の力のことを言っているのだろう。

 気まずい空気が流れて、何を言うべきか悩んでいるときに――メレクウルクがとても不思議そうに口を開いた。

「……お前たちは、いったい何を言っているのだ?」

 メレクウルクはそう言って、怪訝そうな顔をこちらに向けていた。

「――この不毛な大地では、水は貴重な資源だ。
 だから『マナナ=ナルパ』……貴様らの言う『水の太陽』は、
 ここでは恵みの神として崇められている」

 オアシスの都市に足を踏み入れ、その全貌のわずか一角にしかすぎない景観に目を滑らせる。
 そこには様々な種族がいた。山羊の顔をした悪魔のような見た目の種族や、魚骨の仮面をかぶるギ・エンパ族――。

 そして、普通の人間がいることも、すぐに分かった。

「あれの生み出す水は、砂漠に生きる者にとってはまさに奇跡だ。
 あれに助けられた者は多い――もっとも、いくつか副作用はあるようだがな。
 しかし、そんなものは大した事柄ではない」

 エフィールは、小さな舟から下りて、深くかぶっていたフードをゆっくりと外す。
 彼女が目を向けたのは、なんてことはない、ただの道端にいる、褐色肌の子どもたちだった。
 その子どもたちの一人が目を赤く染めて、力を使う。
 重力魔法だった。

「彼らのような『変異の赤目人』がいるのは、ごく普通のことだ。
 いったい何の不思議があるというのだ?」

 重力魔法によって浮き上がり、遊ぶ子どもたちは、中空で無邪気に笑っている……。

 それを見て、『エーデルハイドの魔人』はただ、茫然としていた――……。

 砂漠のど真ん中に発展した、オアシスの街。

 そこは、人と魔人が当たり前に共存している世界でもあったのだ。