スロウはマーヤとの話を終えて……エフィールがいるはずの宿へと足を向ける。
途中で露店を見つけたので、あいつも腹を空かせているだろうと思い、
団子状に丸められた焼き料理を二人分購入。
これは味は薄いがなかなかに腹持ちがいい。
大きな葉で包装されたその料理を受け取り、先を急ぐ。
エフィールが数日前に新しく移ったのは、この街で初となる一人部屋の物件である。
入口は分かりにくく、狭い廊下にいくつもの扉が並び、薄い壁でそれぞれの個室が隔てられている構造で、彼女が入っているのはその中でも明らかに人気の無さそうな薄暗く景色の悪い一室だった。
スロウはその宿にたどり着き、中に入ってひんやりとした土の床を歩きながらその一室へと近づいていく。
前払いで宿泊を契約したと言っていたからまだしばらくは泊まれるのだろうが、期限が来たらどうするんだろうか……?
そんなことを考えながら、まるで気配のしない部屋の扉を開けた。
「――エフィール、起きてたか」
彼女は、ベッドの上に座っていた。
どこにも行っていなかったことに安堵の息を漏らしつつ、
葉っぱで包まれた焼き料理を軽く掲げる。
「とりあえず飯、買ってきたぞ。
食べるか?」
「……」
彼女は何も答えなかった。
……スロウは近くにあったお粗末なテーブルに買ってきた物品を置き、
手前にあったほうの葉を解いて、中から自分の分の料理を取り出した。
団子は少し冷めていたが、内側の方はまだ熱い。
口にしてみると、やはりうまく表現できない不思議な熱が口内に広がっていって、この気まずい沈黙をわずかでも和らげてくれていた。
「……昨日は、恥ずかしいとこ見せたわ」
ぼそりと、静かに座っていたエフィールがうつむいたまま呟いた。
飯を食べる手を止め、壁に寄りかかったまま彼女の言葉に耳を傾ける。
「昨日の子は……あたしの昔の知り合いなの。
同年代の中では一番仲の良い子だったと思う。
名前は――」
「『マーヤフロイデ・エーデルハイド』」
スロウが先取りしてその名前を口に出すと、赤い髪の娘は少し驚いた様子でゆっくりと顔を上げた。
「……そう、話してきたのね。
なんて言ってた?
……きっと、あたしへの恨み言でも言ってたんでしょうけど」
自虐するように笑った彼女は、その細腕を引き寄せてまたうつむく。
ひどいやられようだ。
スロウは気休めの言葉にならないように、あくまでも淡々と事実を伝えようと試みた。
「いいや、心配してたぞ。
お前に会ったときに何も言わなかったのは、声が出せなくなっていたからだ。
あのとき手を差し出していただろ? 彼女はペンダントの魔法道具を持っていたんだ。
それでお前と話そうとしていたんだよ」
「…………」
エフィールはまた、口を閉ざした。
……スロウは食べかけだった団子状の焼き料理を一口ほおばるが、しかしどうにも味がしない。
不思議な熱が鈍く伝わってくる中、なんとなく居心地の悪さを感じてきて、食べかけの料理を開かれた大きな葉っぱの上に置き直す。
そのまま、何を言うべきか、それとも何も言わないべきか、迷いに迷ってなんにも言えず、薄いベッドに腰かける少女を視界の端に捉えたままその場に留まる。
――そんな折、ふと、中空を見つめていたエフィールの金色の瞳から、何かがこぼれ落ちるのが見えた気がした。
「…………疲れた…………」
消えたい……
と、涙が新しい跡をなぞっていた。
「…………」
――エフィールが座るベッドに、無理やり座る。
彼女は退こうとすらしなかった。
こちらの足が向こうの身体に当たっていてもお構いなしに、
魔人の少女は置物のようにそこに座っていた。
「一緒に――」
「……?」
「一緒に、ぜんぶ捨てて逃げようか」
「え……」と金色の瞳から光を失わせたエフィールと目を合わせる。
「……仲間の、ことは?」
「――心配はいらない。
あいつら強いし、たぶん十年後くらいには俺のことなんか忘れて元気でやっているさ」
「故郷は?」
「まあ、無くても生きていけるだろ」
エフィールは完全に困惑している。
それもそのはずだ。だって俺自身ですら自分の言葉に驚いているんだから。
なおも信じがたい様子で狼狽えている彼女に、さらに念を押すようにスロウは続けた。
「俺は、いいぞ」
困惑がついに頂点にまで達したのか、こちらを伺い見ることしかしなくなったエフィール。まるで借りてきた猫のようだ。そんな彼女から視線を外して、頭の中に浮かんだ言葉をありのまま口にした。
「もしこの街の外に出たら――……」
――もう、誰にも迷惑かけなくてよくなるよな。
それってすごく気が軽いことじゃないか。
だって、面倒な人間関係を一切考えなくて済むんだぞ?
この世の天国みたいじゃないか。
ああ、あとそうだ。
金の心配もしなくてよくなる。
だって、金なんて社会の中でしか使わないもんだろ?
社会から一抜けた俺たちには無用の長物だ。
他人のために、仕事とかも探す必要なくなるじゃん。
……もし、この街とか、元の世界に戻るってなったらさ。
面倒事、けっこうあるよな。人間関係ってのがその最たるものだと思うけど……。
もちろん、良いものは手に入ると思うんだよ。
それこそ仲間とか、故郷とか……。
でも、それを手に入れるのためには、
たぶん戦わないといけなくなる。
下手したら死ぬより辛い思いするかもしれないし、
ただ恥をかくだけで終わっちゃうかもしれない。
それくらいだったら、逃げる道を選んでもいいんじゃないかって思ったんだよ。
問題は……食い物だな。
大丈夫。俺たちならたぶん、やろうと思えば簡単にできる。
今までだってちゃんと生き延びてきたじゃないか。
……あ、これに関してはたった今、いいのが思いついたぞ。
豚人族の集落に戻るの、良くないか?
あそこなら一応面識あるから行きやすいし、食糧も手に入る。
実際俺たち、あそこでうまくやれてたよな?
何より、あの種族は俺たちにあまり干渉してこない。
無理して自分を変える必要はなくなるし、社会とつかず離れずの距離を保つことができる。
――俺たちみたいなはぐれ者でも、そこでならきっと生きていける――
「…………」
「あとは、そうだな、簡単だ。
メレクウルクから舟を返してもらって、あの集落にトンボ返り。
それで前と同じ暮らしを再開するんだ。
誰からも文句は言われないし、あのマーヤって子もさすがにあんな僻地までは来ないだろ。
君は何もおかしくない。
魔法道具の力があれば、望めないものは何もないはずだ。
だから――」
「なんで……?」
……彼女の言葉に答えるように薄いベッドから腰を上げ、代わりに土の床にひざをつく。
ちょうどこの小柄な少女を正面から見上げる形になった。
まるで物語の騎士様みたいだと思いながら、その赤い髪の女の子の視線をまっすぐに受け止める。
「エフィール。
俺はお前に命の恩がある。
水の太陽から助けてもらった分があって、
この砂漠の大陸で助けてもらった分が残ってるんだ。
――君のおかげで生きている命が、いま、ここにある」
頼む、分かれ。
「お前にはもう十分生きる価値がある。
元気で生きていてくれなきゃ困る。
もうこれ以上辛い思いはしなくていい。
頼むから――そんな顔をしないでくれ」
なおも俯いたままの彼女に、まっすぐ目線を送り続けた。
「今まで得たものを捨てることになっても俺はいいから、
少しくらい、返させてくれよ。
「……あんたらしくない言葉ね」
「事実そう思ってるんだから仕方ない」
開き直るようにそう言うと、彼女はようやくわずかに笑って、
そして、輝きを取り戻しかけた金色の瞳を曇った表情で揺らしていた。
「少し……考えさせて」
――それから、また数日が経過した。
スロウは魔物退治を終えたあとに料理を買い、一人部屋にこもるエフィールのところへと連日持って行った。元の世界に帰るための行動に費やせる時間は、この時ばかりは無くなっていたと思う。
それと……いつも買っていた焼き料理について判明したことがあった。
「これ――魔法道具で作られたものだったのか」
それは、普段は通らない道を通って、普段使わない店の中をのぞいた時のことだった。
この砂漠の街では珍しく調理の様子が外から見えるような構造になっていて、そこで自分が注文したものが作られるのを目の当たりにした。
何かの穀物か根菜のような食材がすりつぶされ、丁寧に団子状に丸められたあとは、かまどのような形をした魔法道具の中に放り込まれる。
そして内部に灯された不思議なオレンジ色の火によって焼かれ……熱々のまま取り出されてからは長皿のように大きい葉に手早くくるめられて客の手に渡る、という流れであった。
――調理過程に魔法道具の力を経由して作るのか。
この異世界の料理を食べたときに感じた、あの熱そのものからエネルギーを得るような感覚はこれに由来していたのかもしれない。
同じ魔法道具は二つとして存在しないはずだから、もしかしてこのオアシスでの焼き料理はあのかまどで作る分だけで賄っていたのかな……などと考えながら、宿へ向かって、エフィールのいる部屋の扉をたたいた。
部屋に入り、お粗末なテーブルに彼女の分の焼き料理を乗せる。
エフィールは、自分が見ている前でこの料理を食べることは少なかった。
実を言うとちゃんと食べているかどうかも定かではない。食事の形跡は見られないし、彼女はこの数日で少し痩せたように見える。
飯を届けるという任務をあっけなく果たし、魔人の少女に視線を送る。彼女はまるで何かへの罪の意識を抱いているかのようにうつむいて口元をキュっと結んでいた。
まだ待つことしかできないか……。
そう思いながら部屋を出ようとしたその時だった。
「あ……」
声が聞こえて、肩越しに彼女を視界に入れる。
――エフィールは、なぜかハッとした表情のまま固まっていた。
「そっか……」
何かの一線を超えたと直感して、スロウも固まった。
先ほどまでキュッと結ばれていた口元は緩み、光の消えた金色の瞳が茫然と開かれている。
――やがて、開かれた彼女の金色の瞳からとつぜん、涙が生まれ出てくる様子をありありと見た。
「――このままじゃ、だめなんだ……――」
エフィールはそうして、目を見開いたまま嗚咽も漏らさず静かに泣いた。
その泣き方に以前のような激しさはなかった。
ただ、涙を流し続けるほどに目に光が灯っていくように見えて、スロウは何が何だか分からないまま、その様子を自分の目に焼き付けることしかできなかった。
その日、エフィールはスロウが持ってきた料理を食べた。
どこかの誰かが作った、豊かな熱をもたらしてくれる焼き料理を食べて、
冷える砂漠の夜が来ると彼女は薄いベッドで身体を暖めて眠った。
それから一夜が明けて、ある時、エフィールはこう言った。
「魔物退治、もう一度あたしも一緒に行っていい?」と。