第七話 直前

「もう行かれてしまいますか」

 朝露が草木を湿らせる早朝。空はどんよりと曇っていた。
 まったくの無風状態で、静かな朝だった。

 どうせなら昨日みたいに気持ちいいくらい晴れていてほしいものだが、そんなことをぼやいても仕方あるまい。

「悪いな、世話になったぜ」
「いえいえ、こちらこそ魔物を退治していただいて本当に助かりました」

 デューイとハリウは互いに握手を交わし、別れの挨拶を済ませていた。

「もう行っちゃうの?」

 そして朝早くにわざわざ起きてきてくれた子どもたちは、涙目になってスロウを見上げていた。
 完全に懐かれていた。

「近くに来ることがあったら必ず寄るよ」

 次にここに来たらまたたっぷり連れまわされるだろうなと苦笑し、バイバイと別れを言ってスロウとデューイは村を出て行った。

 無言のまま歩き続けていると、徐々に雲行きが怪しくなってきた。
 さっきまでより空が暗い。
 地図を見ながら歩いていたデューイも、足を止める。

「風が強くなってきやがった」

 確かに、この様子だとひと雨来そうだった。

 秋の季節に身体を濡らして風邪でも引いたら大変だし、無理に今日出ていく必要もなかったのではないだろうか。
 しかもこいつは無計画な男だ、ベテラン冒険者とはいえ何もかもを任せていたらかえって危ない。
 まだミスフェルからそう遠くは離れていないから、今なら引き返せるはずだ。

「なあデューイ、雨も降りそうだし、戻った方が――」

……オオオォォォォォォォォォォォ……

 不気味な音が、風に混じって聞こえてきた。

「……今のは?」
「……こりゃあ、早めに村を出て正解だったぜ」

 周りを見渡せるような丘を見つけ、二人してその頂上に立つと、不気味な音の正体が分かった。

 昨日討伐したフシャクピトスとは次元の違う大きさの、水の塊が飛んでいた。
 あれだけの規模だったら、平原をまるごと呑み込めるのではないだろうか。
 一体どういう原理なのかは分からないが、自身を中心に雷雲の渦を形成しながら空中を漂っている。その水球の奥には、巨大な影がうごめいていた。

 スロウは初めて遭遇したその存在に戦慄する。大きさも、威圧感も、明らかに桁違いだ。

「水の太陽だ」
「あれが……!?」

 噂に聞いていた最悪の魔物は、スロウの想像をはるかに超える強大な力を感じさせた。

 水面に白波をさざめかせながら、ゆっくりと、ゆっくりとある方向に飛んでいく水の太陽を見て、スロウは気が付いた。

「おい、ミスフェルの方に向かってるんじゃないか?
 ――水の太陽が上に来ると、どうなる?」

 曇った表情を浮かべるデューイを見て、スロウは嫌な予感がした。

「大量の魔物が発生する」
「村の人たちは?」

 デューイはすぐには答えなかった。

「……まず、助からないだろうな」

 とっさに動こうとしたが、肩を掴まれた。

「待て、水の太陽に勝てるわけがねえ、無駄死にするだけだ」
「見捨てるのかよ」

 口調が荒くなったスロウにたじろぐデューイ。
 デューイは息を呑んで、しかし、スロウとまっすぐ向き合った。

「率直に言わせてもらうが、お前じゃ明らかに力量不足だ。
 オレ様はともかくとして、それでも、たかが二人でしのげる相手じゃねえ。
 お前まで犠牲になることはない」
「でも、危険を知らせないと!」
「もう手遅れだ!」

 デューイは、はっきりと、スロウの目を見てこう言った。

「あの村は見捨てろ」

 息が止まった。

 見捨てる? ミスフェルの人たちを?

 いや、落ち着け。
 デューイの言っていることは分かる。

 たった一日かそこらで知り合っただけの人たちのために無謀な戦いを挑むか、
 それとも彼らを見捨てて自分の命だけは確実に守るか。
 その二つだ。

 そして、一番現実的なのは彼らを見捨てる選択肢の方だというのも、分かる。
 国を一つ滅ぼした魔物を相手にして、たった一つの村を守ることがどれだけ絶望的かってことくらい、分かる。
 分かる、けど。

「――もしもあの村が、俺の探し求めている故郷だったらどうする?」

 ぽつりと、震えるような声でつぶやいた。

「いつか記憶が戻って、ミスフェルが自分の故郷でした、でも水の太陽に襲われて地図の上から消えていました、なんてことになったら、どうする?」

 もちろん、そんなことはありえない。
 村の人たちはスロウを知らなかった。本当の故郷であるはずがない。
 しかし。

 スロウは想像する。ご飯を食べさせてくれた村長ハリウや、一緒に遊んだリリーたちが、どこにもいない未来を。
 一つの居場所を失い、途方に暮れる自分の姿を。

「そんなの嫌だ」

 徐々に、声に力が込められる。
 自分はこんな声が出せるということを、初めて知った。

「故郷を見つけ出したいのに、故郷が滅んで無くなってしまったら意味がないんだ」

 スロウは思い出す。スクルナ村にいた頃を。
 自分を受け入れてくれる場所などないと、孤独に苛まれていた時を。

「『帰れる場所がどこにもない』、そんな思いはもうしたくない!!」

 スロウは、ミスフェルの方向へ駆け出す。
 無謀でも、できることはあるはずだ……!

「ちっ、他人のために、なんてガラじゃねえのに……!
 ああもう!!」

 頭をガシガシと掻いて、デューイも足を動かした。

「待ちやがれスロウ! 手柄を独り占めするんじゃねえー!!」

 二人の旅人が、雨風に呑み込まれそうな小さな村へ走っていく。
 最悪の魔物との、決死の防衛戦が始まろうとしていた。