第九話 囮

 バシャバシャと水を立てて村の外側まで移動したスロウ。
 教会から対角線上の、最も遠い場所だ。
 このあたりでいいだろう。

 深呼吸。
 銀色に光る剣を掲げる手が震える。

 デューイはおろか、加勢してくれる人もいない。
 完全に一人だ。

 落ち着け、落ち着け。
 膨れ上がる恐怖心に支配されるな。
 覚悟を決めろ。

 考えるよりも先に剣を振り落とし、叫んだ。

「俺はここにいるぞおおおぉおぉぉ!!」

 無数の瞳が一斉にこちらを向いた。
 瞬間、わき目も振らずに駆け出す。

 轟音を何度も何度も打ち鳴らし、雨のノイズを掻き消す。
 スロウは必死になって自分に言い聞かせる。

 魔物を倒すことは考えるな。
 逃げることだけに徹しろ。

 リリーの家を曲がり、子どもたちの遊び場になる木があって、それで……!

 昼間のうちに頭に叩き込んだ村の地形を頼りに走り、魔物を避け、さらに走る。
 教会からなるべく遠い場所をぐるぐる回り、囲まれそうになったら狭い路地、あるいはあえて家の中に入り込んで木窓から外に出る。包囲網を抜け、また走る。

 頭も心臓も沸騰しそうだ。

「はぁっ、はあっ、はぁっ……!」

 息が苦しい。
 手を置いて休みたくなるが、魔物は容赦なく襲い掛かってくる。

「くっそ……!」

 横から突然繰り出された鋭い脚を前方に飛び込んで回避。
 体中が泥だらけになる。
 それでも走り続け、剣を打ち鳴らし続けるスロウ。
 後ろから死の足音が追ってくる。

 どれくらい走っただろうか。
 数十分か、それとも数時間か。

 無理やり身体を前へ進めて、剣を振るう。
 どこかで一線を超えてしまったのか、途中から疲労感を感じなくなっていた。

「うっ……!?」

 途端に、頭上からの衝撃を受けてスロウは倒れ込む。
 真上から魔物が飛びかかってきたのだ。
 身体をねじって上を向くと、真っ黒な瞳が目の前にある。

「このっ……!」

 剣で魔物の目玉を突いて、足の隙間から抜け出した。

 その場で暴れる魔物を尻目に路地へ入ろうとするスロウ。
 だが、足が動かない。

 ―ー見れば、右足から大きく出血していた。

「あ、っづ……!」

 傷を負っていることを認識した瞬間に、激痛がやってきた。
 血が止まらない。
 さっき魔物が飛びかかってきた時にやられたのだ。

 気が付くと、入り込もうとしていた路地から別の魔物が現れる。

 方向転換。
 もう一つの道の先にも、魔物。
 焦って当たりを見渡す。

 いつの間にか、囲まれていた。

 ――まずい。

 何とかしないと。
 だが、どれだけ周りを見渡しても、逃げられる場所などどこにもない。

「はぁっ、はぁっ、はぁっ」

 まずい、まずい、まずい。

 息が苦しい。
 腹の底が冷えていく、血が止まらない。
 このままじゃまずい。何とかしないと。
 魔物を倒す? 無理だ、自分にそこまでの力はない。

 自分を取り囲む魔物の数がふくれあがっていく。

 さらに、後ろで暴れていた魔物が起き上がったようだ。振り向いた瞬間にはもう遅く、前脚で思い切り地面に叩きつけられた。
 パンッという音とともに水面が破れる。

「かっ、は……!」

 とっさに剣を間に挟んだものの、内臓まで衝撃が伝わったのか激しくせき込んだ。
 口内から飛び出た唾には真っ赤な血が混じっていた気がする。

 起き上がって逃げようとするが、しかしもう目の前の魔物は、鋭い前脚を自分に突き刺そうとしていた。

 避けられない。

 もう、だめだ……!

 スロウの胸中に死への確信が芽生えたその時。

「え?」

 閃光が、飛んできた。

 気がついた瞬間には、眼前の魔物は串刺しにされて動かなくなっていた。
 もう、ピクリとすら動いていない。
 そいつは流れ星のような速度で飛来した金色の線に貫かれ、沈黙している。

「矢……か?」

 細長い胴体に見事に突き刺さったその黄金の矢は、しかし、すぐに消えてしまう。

 幻覚か何かだと思ったが、さらに信じられない光景を目にする。

 どこかから風を切って飛んでくる光が、次々と異形の魔物を貫いていく。
 どうやら遠くから攻撃を加えているようだ。少しずつ魔物の包囲が崩れていく。
 あれだけたくさんいたはずの敵が、まるでアリのようにあっけなく排除されていった。

 気が付けば周囲に魔物はいなくなっていた。

 あまりにも短い時間で起きた出来事に、頭が混乱する。
 状況が分からない。

 雨の音だけが響く中、暗闇の向こうから誰かが歩いて来る気配がした。

 影が近づくにつれて、その人物の容貌が明らかになる。黒いマントを羽織り、フードをかぶっているようだ。顔は見えない。
 腰の高さのところに構えた大きな弓に、複雑な幾何学模様が刻まれていることに気が付いた。

 魔法道具だ。

「大丈夫?」

 凛とした、女性の声だった。

「あ、ああ……」

 フードを目深にかぶっているためにその表情は見えないが、スロウの持っている剣をちらりと見たことは分かった。

「何度も派手な音を立てていたのは、あんたね」

 次に、スロウの足のケガを見たその人はきれいな布を取り出して、投げ渡してきた。
 これで止血しろ、ということだろうか。

……オオオオオォォォォォォォォォ……

 不気味な咆哮が響く。
 同時に、遠くから魔物が集まってくる気配がした。

「そこで待ってて、敵はあたし一人で倒す!」
「ち、ちょっと!」

 呼びかけも聞かずに走り出すフードの女性。
 押し寄せる魔物たちの群れに突っ込んでいく。

 彼女がその大きな弓に手を添えた瞬間に、光の矢が生成された。
 三本、同時に。

 謎の人物は敵に向かってさらに加速。四本脚の魔物の懐に入り込んで、射る。
 衝撃波が生まれる瞬間を初めて見た。
 超至近距離からモロに受けた魔物が、後方の敵も巻き込んで大きく吹っ飛ぶ。

 細い線だったはずの矢が、まるで杭のように図太くなって射られたことに気づいたのは、その後だった。

 弓使いというと敵から離れて戦うイメージがあったが、彼女はまったくの逆だった。
 異様に高い機動力で敵を翻弄し、攻撃を避け、至近距離から金色の矢を放っていく。

 それだけではない。
 彼女が弓に生成された光の線をつかんだ瞬間、光が、剣を形作ったのだ。
 左手に握られたその薄い光波は易々と魔物を切り裂き、彼女が手を離せばすぐに霧散する。

「つ、強……」

 信じられない速度で魔物が殲滅されていく。

 あれは、自由自在に形を変える光の矢を生み出す魔法道具だろうか。
 それを適切な場面で、適切な形に変える判断力も、きっと相当なものだ。

 もしかしてあの女性ひと、デューイよりも強いんじゃないか……?

 少しずつ、少しずつ、空が明るくなってきた。
 雨も風も、さっきと比べて弱くなっている。
 終わりが近いのは明らかだ。

「雲が晴れてきた、あと少しだ!!」

 大声で彼女に知らせる。
 その声が届いたのか、さらに戦闘のスピードが上がる弓使い。

 それから少しも経たない内に、その時が来た。

……オオオオォォォォォォォォォ……

 黒く分厚い雲が、霧散していく。
 荒波を立てていた空の海が、穏やかなものに変わっていく。
 頭上からのしかかるような波の轟音はもう聞こえない。

「お、終わった?」
「――お疲れさま」

 晴れた空の向こうでは、まだ太陽が高く昇っていた。
 水の太陽が、きれいな球体を維持してどこかへと飛んでいく。

 こうして、決死の防衛戦をどうにか乗り切ったのだった。