バシャバシャと水を立てて村の外側まで移動したスロウ。
教会から対角線上の、最も遠い場所だ。
このあたりでいいだろう。
深呼吸。
銀色に光る剣を掲げる手が震える。
デューイはおろか、加勢してくれる人もいない。
完全に一人だ。
落ち着け、落ち着け。
膨れ上がる恐怖心に支配されるな。
覚悟を決めろ。
考えるよりも先に剣を振り落とし、叫んだ。
「俺はここにいるぞおおおぉおぉぉ!!」
無数の瞳が一斉にこちらを向いた。
瞬間、わき目も振らずに駆け出す。
轟音を何度も何度も打ち鳴らし、雨のノイズを掻き消す。
スロウは必死になって自分に言い聞かせる。
魔物を倒すことは考えるな。
逃げることだけに徹しろ。
リリーの家を曲がり、子どもたちの遊び場になる木があって、それで……!
昼間のうちに頭に叩き込んだ村の地形を頼りに走り、魔物を避け、さらに走る。
教会からなるべく遠い場所をぐるぐる回り、囲まれそうになったら狭い路地、あるいはあえて家の中に入り込んで木窓から外に出る。包囲網を抜け、また走る。
頭も心臓も沸騰しそうだ。
「はぁっ、はあっ、はぁっ……!」
息が苦しい。
手を置いて休みたくなるが、魔物は容赦なく襲い掛かってくる。
「くっそ……!」
横から突然繰り出された鋭い脚を前方に飛び込んで回避。
体中が泥だらけになる。
それでも走り続け、剣を打ち鳴らし続けるスロウ。
後ろから死の足音が追ってくる。
どれくらい走っただろうか。
数十分か、それとも数時間か。
無理やり身体を前へ進めて、剣を振るう。
どこかで一線を超えてしまったのか、途中から疲労感を感じなくなっていた。
「うっ……!?」
途端に、頭上からの衝撃を受けてスロウは倒れ込む。
真上から魔物が飛びかかってきたのだ。
身体をねじって上を向くと、真っ黒な瞳が目の前にある。
「このっ……!」
剣で魔物の目玉を突いて、足の隙間から抜け出した。
その場で暴れる魔物を尻目に路地へ入ろうとするスロウ。
だが、足が動かない。
―ー見れば、右足から大きく出血していた。
「あ、っづ……!」
傷を負っていることを認識した瞬間に、激痛がやってきた。
血が止まらない。
さっき魔物が飛びかかってきた時にやられたのだ。
気が付くと、入り込もうとしていた路地から別の魔物が現れる。
方向転換。
もう一つの道の先にも、魔物。
焦って当たりを見渡す。
いつの間にか、囲まれていた。
――まずい。
何とかしないと。
だが、どれだけ周りを見渡しても、逃げられる場所などどこにもない。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ」
まずい、まずい、まずい。
息が苦しい。
腹の底が冷えていく、血が止まらない。
このままじゃまずい。何とかしないと。
魔物を倒す? 無理だ、自分にそこまでの力はない。
自分を取り囲む魔物の数がふくれあがっていく。
さらに、後ろで暴れていた魔物が起き上がったようだ。振り向いた瞬間にはもう遅く、前脚で思い切り地面に叩きつけられた。
パンッという音とともに水面が破れる。
「かっ、は……!」
とっさに剣を間に挟んだものの、内臓まで衝撃が伝わったのか激しくせき込んだ。
口内から飛び出た唾には真っ赤な血が混じっていた気がする。
起き上がって逃げようとするが、しかしもう目の前の魔物は、鋭い前脚を自分に突き刺そうとしていた。
避けられない。
もう、だめだ……!
スロウの胸中に死への確信が芽生えたその時。
「え?」
閃光が、飛んできた。
気がついた瞬間には、眼前の魔物は串刺しにされて動かなくなっていた。
もう、ピクリとすら動いていない。
そいつは流れ星のような速度で飛来した金色の線に貫かれ、沈黙している。
「矢……か?」
細長い胴体に見事に突き刺さったその黄金の矢は、しかし、すぐに消えてしまう。
幻覚か何かだと思ったが、さらに信じられない光景を目にする。
どこかから風を切って飛んでくる光が、次々と異形の魔物を貫いていく。
どうやら遠くから攻撃を加えているようだ。少しずつ魔物の包囲が崩れていく。
あれだけたくさんいたはずの敵が、まるでアリのようにあっけなく排除されていった。
気が付けば周囲に魔物はいなくなっていた。
あまりにも短い時間で起きた出来事に、頭が混乱する。
状況が分からない。
雨の音だけが響く中、暗闇の向こうから誰かが歩いて来る気配がした。
影が近づくにつれて、その人物の容貌が明らかになる。黒いマントを羽織り、フードをかぶっているようだ。顔は見えない。
腰の高さのところに構えた大きな弓に、複雑な幾何学模様が刻まれていることに気が付いた。
魔法道具だ。
「大丈夫?」
凛とした、女性の声だった。
「あ、ああ……」
フードを目深にかぶっているためにその表情は見えないが、スロウの持っている剣をちらりと見たことは分かった。
「何度も派手な音を立てていたのは、あんたね」
次に、スロウの足のケガを見たその人はきれいな布を取り出して、投げ渡してきた。
これで止血しろ、ということだろうか。
……オオオオオォォォォォォォォォ……
不気味な咆哮が響く。
同時に、遠くから魔物が集まってくる気配がした。
「そこで待ってて、敵はあたし一人で倒す!」
「ち、ちょっと!」
呼びかけも聞かずに走り出すフードの女性。
押し寄せる魔物たちの群れに突っ込んでいく。
彼女がその大きな弓に手を添えた瞬間に、光の矢が生成された。
三本、同時に。
謎の人物は敵に向かってさらに加速。四本脚の魔物の懐に入り込んで、射る。
衝撃波が生まれる瞬間を初めて見た。
超至近距離からモロに受けた魔物が、後方の敵も巻き込んで大きく吹っ飛ぶ。
細い線だったはずの矢が、まるで杭のように図太くなって射られたことに気づいたのは、その後だった。
弓使いというと敵から離れて戦うイメージがあったが、彼女はまったくの逆だった。
異様に高い機動力で敵を翻弄し、攻撃を避け、至近距離から金色の矢を放っていく。
それだけではない。
彼女が弓に生成された光の線をつかんだ瞬間、光が、剣を形作ったのだ。
左手に握られたその薄い光波は易々と魔物を切り裂き、彼女が手を離せばすぐに霧散する。
「つ、強……」
信じられない速度で魔物が殲滅されていく。
あれは、自由自在に形を変える光の矢を生み出す魔法道具だろうか。
それを適切な場面で、適切な形に変える判断力も、きっと相当なものだ。
もしかしてあの女性、デューイよりも強いんじゃないか……?
少しずつ、少しずつ、空が明るくなってきた。
雨も風も、さっきと比べて弱くなっている。
終わりが近いのは明らかだ。
「雲が晴れてきた、あと少しだ!!」
大声で彼女に知らせる。
その声が届いたのか、さらに戦闘のスピードが上がる弓使い。
それから少しも経たない内に、その時が来た。
……オオオオォォォォォォォォォ……
黒く分厚い雲が、霧散していく。
荒波を立てていた空の海が、穏やかなものに変わっていく。
頭上からのしかかるような波の轟音はもう聞こえない。
「お、終わった?」
「――お疲れさま」
晴れた空の向こうでは、まだ太陽が高く昇っていた。
水の太陽が、きれいな球体を維持してどこかへと飛んでいく。
こうして、決死の防衛戦をどうにか乗り切ったのだった。