「今日はありがとうございました!」
日が暮れてきて、高台から下りている道中である。
「話を聞いてくれて嬉しかったです!」と、彼女は笑う。「実は、魔法道具のことが好きな半獣人は、わたしの一族しかいないみたいなんです。だからこういう話ができる相手はとても貴重です」と。
それってどういう……と言いかけたが、セナは階段を一段ずつ、跳ねるように下りていく。まるで本当の風にでもなったみたいに軽やかなステップだった。
まあ、いいや。
スロウは既に、この少女に対して尊敬の気持ちを抱いていた。
周りから避けられたり、騙されそうになってもまっすぐ夢を追いかけてる彼女の姿に、少なからず勇気づけられている自分がいたのだ。
だからか、いつの間にかこんな言葉を投げかけていた。
「セナ、冒険者になったら一緒にダンジョンに行ってみない?」
ウサ耳の少女は驚いたように振り返る。階段の下から、こちらを見上げるように。
スロウは位置的に彼女を下に見るような場所にいたが、これではなんとなく違和感があった。少し下りて、セナと同じ段差に並ぶ。うん、こっちの方がしっくりくる。
どう? とセナの顔を見ると、彼女は花が咲いたように笑った。
答えは聞くまでもないだろう。
「はい! こちらこそよろしくお願いします!」
そうして彼女は、にっこりと笑ったのだった。
その後は、また他愛もない話を続けた。
最初に待ち合わせの場所を確認しただけで、それ以降は雑談でもしながら階段を下りていく。平穏な時間だ。
やがて階段が途切れ、薄暗い広場まで下りて来た時だった。
唐突に、セナの耳が反応する。
まっすぐになって小刻みに動くこの仕草は見覚えがある。
直後、カッ、コッと複数人の足音が暗い広場に響いた。
暗い広場の中心に、いくつかの影が伸びてくる。無論、スロウたちのものではない。
夕暮れで細長く伸びた影の、その根元に視線を移す。
「ええっと、あの人たちは……」
「さっきの詐欺師だ」
セナを騙そうとして、風に吹き飛ばされた詐欺師たちである。
また怪しい取引をしに来たのか。
二人の顔に警戒の色が浮かぶ。
しかし、彼ら以外にも人影が二つあった。
一人は、猫耳を生やした女性である。首輪が装着されていた。
そして、最後の一人。
「こんにちは」
その女性とは対照的に、質の良さそうな服を着こなし、うすら笑いと、濁った瞳をたたえた、小太りの男だった。
低く落ち着いた声の中に、どこか枯れたようなノイズが走っている。
スロウはとっさに囲まれていないか確認した。
一応、通ってきた階段にはそれらしき人影はない。どうやら彼らは、真正面から堂々と踊り出てきたようだ。
「……あんたは?」
「奴隷商人、オドン」
オドンと名乗った男は、胸に手を当てて恭しく頭を下げる。
ゆったりとした動作なのに、どこか油断ならない雰囲気があった。
「まずは非礼を詫びよう。先ほど、偽の契約を持ちかけたのは私の部下たちだ」
そう言って顔を上げた彼の瞳には、怪しい光がにじんでいた。
「人をだますのは本意ではないのだが、どうやら部下の教育が行き届いていなかったようだ。
大変、失礼した」
ほのかに暗い青の瞳で、スロウ達をまっすぐに見据えるオドン。
「それで、要件は?」
「そちらのお嬢さんに。確か名前は……セナ・フラントール」
「わ、わたし?」
なぜ名前を知っているのか。そんな表情のセナに構わず、奴隷商人のオドンは続けた。
「冒険者になってみないか?」
単刀直入である。
怪訝な表情を浮かべる二人だったが、そんな二人の反応を予想していたかのように、絶妙な間を開けてからゆっくりと口を開くオドン。
「我々奴隷商人も、経営難でね。
有能な奴隷は喉から手が出るほど欲しいのだ。
例えば、ルーン文字が読める半獣人とか」
彼がじろりとセナに目をやると、同時にオドンの横にいた猫耳の女性がうつむいた。
「盗み聞きか」
「情報収集は商売の鉄則だ」
……セナもそうだったが、おそらく半獣人は耳が良い。
二人で商店街をぶらついてルーン文字を読んでいたくだりも、きっとあの女性を通して聞いていたのだろう。そして察するに、首輪をしているのは奴隷の証だ。
この男は信用ならない。
スロウはそんな直感を感じてセナの方に向いた。
話を聞く必要などないのではないかと口を開こうとしたが、彼女は首輪をつけた猫耳の人を見て固まったままだった。
「奴隷として冒険者に加わり、ダンジョンに潜る半獣人が多いのは知っているだろう? 半獣人は身体能力が高いからな。
だが、その中でルーン文字の解読ができる人間なんてそうそういない」
ごく自然な動作で、オドンは猫耳の半獣人をさえぎるように前へ出た。
明らかに俺たちの視線を意識していた。
「冒険者に売ってしまうのがもったいないくらいだ。
できるなら、君は私の手元に置いておきたい。
そう……未来のために」
奴隷商人の濁った瞳が、黒く輝いた。
その不気味なプレッシャーに、セナは抗おうとした。
「で、でも。わたしは奴隷じゃなくて冒険者になりたいんです。だから……」
「では、いつ成るつもりだ?」
強い口調でさえぎるオドン。
わずかに怒気が込められたその言葉は、セナを萎縮させるのには十分だった。
「君は有能な人間だ。その若さにして判断力もある。
しかし、それくらい有能な者が、どうして冒険者ギルドに属さず、いまだ一人で夢を追いかけている?」
奴隷商人は両手を後ろに組んで歩き出す。
考える時の癖であるかのように、ゆっくりと、右へ、左へ。
二人は威圧感に呑み込まれて、逃げ出すタイミングを完全に見失っていた。
「周りの人間の目が、致命的に節穴だったのか? 違う。
手を差し伸べてくれる者が一人もいなかった? それも違う」
突然、オドンは立ち止まって、こう言い放った。
「君が、何もしなかったんだ」
後ろにいた少女が、息を止めた。
「明確なチャンスがあったにも関わらず、君はそれを見ないふり……。
決断を先延ばしにして、責任を回避しようと必死になる。
それが君という人間の本質だ」
スロウが後ろを見ると、セナは下を向いて黙ったままだった。
ケープに包まれた華奢な身体が小さく震え、頬には一粒の汗が流れている。
「そんなことで、自分の夢を語れるのか?」
オドンは足をこちらに向けて、少しづつ、力を加えるように、ゆったりと歩んでくる。
コツリ、コツリと革靴の音を立てながら。
スロウはセナを後ろに隠し、前に立って奴隷商人をまっすぐに見据える。
やがて彼は目の前にきて、静かに、明確に問いかけた。
「それは本当に君の『夢』なのか?」
スロウは退かなかった。
問いかけられた背後の少女は何も答えない。いや、答えられない。
セナをじっと見据えていた奴隷商人は、ふっと背中を向ける。
「現実を見たまえ。
所詮、夢なんてそんなものだ。
子どもの時にどれだけ希望に満ち溢れていたとしても、大人になるにつれ、いつの間にか情熱は消え去ってしまう」
だが、それもすぐに慣れる。
感情のない、無機質な目でオドンは笑う。
「『今』を少しだけ我慢すれば、確実な『未来』が手に入るのだ。
私は君を買っている。その能力が埋もれるなんてもったいない。
もう一度言おう。奴隷となって、私の下で働け」
答えを求められるセナは、うつむいたままだ。
そして長い時間をかけて、ようやくと言った雰囲気で口を開いた。
「……考えさせてください」
「――では明日、答えを聞こう」
奴隷商人オドンが合図をすると、詐欺師たちも、半獣人の奴隷少女も、背中を向けて歩き出す。
その薄暗くなった広場には、スロウとセナだけが取り残された。
「……セナ、大丈夫?」
彼女は答えぬまま、黙って近くの階段に座り込んだ。
目元をぬぐう仕草をすると、弱々しい笑みをスロウに見せる。
「ごめんなさい、スロウさん。
すこし、自信無くしちゃいました」
「あんなやつの言葉なんか真に受ける必要ないよ。
セナは遠くからここまでやってきたんだろう?
何もしてないわけ無いじゃないか」
スロウには国家間の地理は分からないが、それでもきっと異国まで来るのには相当勇気を振り絞らなければならないはずだ。
彼女の決意は確かなものだろう。
「違います。実は、あの人の言うとおりなんです」
しかし、セナ本人はそれを否定した。
「一度だけ、大都市に行って、冒険者ギルドに登録しようとしました。
でも、辞退したんです」
「どうして?」
「……怖くなったんです」
ひざを抱えてうつむきながら、彼女は言葉を漏らしていた。
「他の冒険者の人たちが、わたしなんかよりもずっと才能のある人たちばかりで、たくさん情熱があって。
本当に、すごいんですよ。
わたしより年下の人もいて、なのに、すごく活躍してるんです。
それが怖くなって、諦めました」
……チャンスがあったのに。
小さな声で彼女はつぶやく。
「それで、この街に来たんです」
中都市カーラル。
冒険者の街とはいえ、大都市に比べたら、きっとひどくこじんまりとした場所に見えたのだろう。
「でも、わたし……わたし、魔法道具のことを知りたいんです。本当なんです」
空を飛ぶ舟に乗って。自分の夢を見つけて。
それがきっと、本当に楽しくて。
「嘘じゃないんです……」
ぽろぽろと涙をこぼす半獣人の少女は、ただひざを抱えてうずくまるだけだった。