第六十話 漂流 後編

「水……水だ!!」

 ――急いでエフィールを背負い、水源へと走る。

 近づくにつれてその様子が良く見えるようになり、同時にそれが本物の水だという確信も強くなっていった。

 やった! 水だ!

 砂地が続いていたはずの足元が、徐々に徐々に固くしっかりとしたものへ変わっていく感覚に興奮すら覚える。
 幻覚じゃない! 確かにそこにある!

 近くにぼろぼろのテントみたいなのも見えたが――それは後だ!

 やがて蹴り上げた砂がそこに届くほどの距離にまで近づくと、スロウは倒れこむようにして水面へ顔を近づける。
 そして、もう待ちきれないと水面へ手を伸ばし、液体を口へ運んだ。

「――ぷはぁ……!」

 今まで飲んだ中で、世界一うまい水だった。

 バシャバシャと何度も両手を上下し、水分を摂取する。
 ぬるい液体が喉を通り、胸の真ん中を過ぎて、腹のあたりに染み渡っていく感覚は爽快だった。
 潤いが身体の中心から外側に向けて浸透していく様子を想像しながら、腹いっぱいになるまで飲み続ける。
 そうして取り込んだ水分が自分の身体に作用しているのを実感して――ふと、思い出した。

 ……その記憶は、とあるジャッジの声で再生される。

『見てください、水の太陽の雨水です。
 あの化け物が去ると、時間差でこのように重力魔法の影響を受けた液体に変化するのです。
 魔人化する危険がありますから、間違っても口に入れないように・・・・・・・・・・・・・・

 水をすくう手が、ピタリと止まった。
 瞬きする間に全身からサーっと血の気が引いていく。
 ひどく暑いはずの砂漠の上で冷や汗をかきながら、恐る恐るオアシスの水を手ですくい、そのまま落としてみる。

「……大丈夫……だよな」

 パシャリ、バシャリと何度も試し、その様子を凝視する。
 水は確かに普通の速度で落ちていて、その場に浮遊することなどない。
 常識の範囲内で起こる現象に思わず安堵の息を漏らした。

 大丈夫だ。これを飲んでも魔人化はしない。

「おい、飲めるか?」

 勢い余って放り出してしまっていたエフィールを引き寄せ、そのまま水を飲ませてやる。
 片手で頭を支え、皮袋に補充した水を飲ませると、浮かんでいた苦悶の表情は和らいだようだった。

「……さて、ここはどこだ……。
 ……ん?」

 周囲を見渡すと、そばにはいくつものテントが建てられている。
 数は四つだ。三角形で、人が入るには小さすぎる。
 黒ずんだ布切れの寄せ集めでこしらえたような見た目で、率直に言ってしまうとかなりボロ臭い。その今にもちぎれそうな切れ端が砂塵を舞き上げる風にたなびいている様子は、何とも哀愁漂っていた。

 と、目の前のテントからガサゴソと音がしたので、注視する。

「……えっ、魚?」

 中から出てきたのは、真っ白な魚の頭蓋骨――。
 いや正確には魚の頭蓋骨を被った謎の小人だ。

 背丈はスロウの腰ほどもなく、その身をテントと同じようなぼろ切れのかき集めでぐるぐると包んでいて、そしてやせている。
 そもそも人間であるかどうかも疑わしい骨格だった。
 特に足なんかは明らかに関節の位置がおかしく、見た目だけで判断するなら、人というよりは馬のそれに似ていた。
 片手にはこん棒をぶら下げ、気だるそうな動きでその原始的な魚骨の被り物の位置を調整している。

 真っ白な魚の頭蓋に丸く浮かぶ二つの眼孔は小さいが闇のように暗く、その奥を垣間見ることはできない。
 ……が、なぜかそいつと目が合ったような気がして、そのまま二人で見つめあった。

「――ギィ! ギィ!」

 途端に、砂漠に響くほどの大声を上げ始める謎の小人。背丈の割に力強い声だった。
 こん棒をこちらに向けて飛び跳ねている様子は何かの怒りを感じさせ、さらに張り上げられる声も相まって怖気づいてしまった。
 尖った歯が残る魚の頭骨は、小人の動きに合わせてカチカチと細かい開閉を繰り返している。明らかに威嚇を表していた。

「ギィィ!! ギィィィ!!」
「何だ……?」

 見れば、岩陰に張られていた他のテントから、微妙に形状の異なる魚の頭蓋を被った小人たちがぞろぞろと溢れ出してくる。……名前をつけるなら『魚骨ぎょこつの仮面族』が適しているだろうか。
 みな同じような背丈で、最初に声を上げた個体に呼応するように、飛び跳ねたり、大声を上げ始める。カチカチといくつもの魚骨の仮面が揺れる音が、その大声と相まって、この灼熱の大地にずいぶんと不穏な合唱を響かせていた。

 その様子を見て、自分の置かれた状況をなんとなく直感する。

 ――これは、おそらく「縄張りに入ってしまった」ということなのでは?

 とっさにエフィールを引きずってオアシスから出ていこうと試みた。

「うわっ!」

 が、俊敏に動いた謎の小人族が数匹、道を遮るように立ちはだかる。

 逃がすつもりはないらしい。
 気が付いたらもうすでに退路は絶たれていた。

 彼らはじわじわとこん棒を手に距離を詰めてくる。ざり、ざり、とすり足をする音がやけに大きく聞こえた。

「あ、はは……。
 頼むよ……すぐ出ていくから、な?」

 ダメもとで申し訳なさそうに問いかけてみるが、当然、意図が通じるはずもなく、

 彼らは数秒の間を置いた後に、襲い掛かってきた。

「ちょっ……痛い痛い痛い!」

 小人たちは異様な跳躍力で飛び上がったかと思うと、スロウの腕にしがみつき、背中に張り付いて、こん棒でポカポカと叩いてくる。

 ――いや、だいぶシャレにならない攻撃力だぞ!?

 かろうじて頭だけは守っているが、それ以外の部位にはもうすでに痣ができているような気がする。
 最初の一匹だけは剣で叩き落せたが、その直後からガードのために両腕を頭に持って行ってしまったせいで反撃できなくなっていた。

「ごめん! ごめんて!!」

 高速で振り下ろされる硬いこん棒に腕を挟みながら、情けない声で許しを請う。
 客観的に見るとかなりマヌケに思える構図かもしれないが、叩かれてる本人は割と本気で危機感を感じていた。
 痣のできた部位を繰り返し殴られ、全身の骨がミシミシ言ってるのがすぐに分かった。芯まで響く打撃を連続で打たれ、身体中が悲鳴を上げる。襲われ始めてからわずか十数秒の出来事である。

 振りほどこうと身をよじらせても彼らは執拗にしがみついてきて、力任せにこん棒を振る。
 ギィギィと耳元でつんざく大声に恐怖すら感じた。あ、これマズいかも――。

 もはや自分ひとりではどうしようもできないと気付き始めたころ、思わぬところから助け舟が入った。

 ――閃光が下から突き上げられた。

 その見覚えのある鋭い光は、スロウの身体にまとわりついていた小人族たちを貫いて天へと消えていく。
 物理的に針のむしろにされたような感覚に陥ったが、その光の矢は器用にもスロウを傷つけることなく、まとわりついていた敵だけを正確に射抜ききったらしい。

 こんな芸当ができる人物など、一人しかいない。

「うるさいわね……」
「エフィール! 起きたのか!」

 エーデルハイドの魔人こと、エフィール・エーデルハイドだ。
 彼女は倒れた状態のまま、仰向けで弓を構えていた。

「助かった!」

 スロウもようやく剣を構え直して、飛び掛かる魚骨の仮面に剣を叩きつける。
 デューイから教わった剣術の基礎を活かし、回転の勢いをつけて攻撃を加えた。

 どうやら魚骨の仮面族はエフィールのことも敵と認定したらしい。明らかに弱っているのが見て分かる彼女に対し集中的に攻撃をし始めた。
 光の弓矢で応戦する魔人の少女だったが、まだ調子が悪いのか重力魔法も使うことなく、次第に小人族の群れに囲まれてあの硬いこん棒で叩かれるようになっていく。

 一方のスロウはというと、二、三匹を相手にするのが限界だった。
 こいつら、予想以上にタフだ。剣で何度ぶったたいてもすぐ起き上がるし、断切剣の力を使っても殺気を予知したみたいに避けられる。

 このままじゃ埒があかない。
 エフィールにこん棒が振り下ろされるのを確認してそう理解したスロウは、苦肉の策で、あの能力を使った。

「できれば穏便に済ませたかったけど……ごめん!!」

 剣を振りかざし、ルーン文字を輝かせる。

 ――直後、小さなオアシスから水が巻きあがった。
 生きているかのようにうごめく流体はやがて、とある魔物の姿形を得る。

 トカゲのような細い胴体と、それを支える三角盾のような四本足に、細い尾。
 水の太陽が生み出す異形の魔物と、同じ輪郭。
 異なるのは全身が柔らかそうな液体で構成され、水色に淡く発光していることだけだ。

 オアシス自体が小さいためか、数は少なく、サイズも小さい。
 だが十分だ。
 それら水像たちは、巨大な水の刃と化した。

 そのあとは、一瞬だった。

 ぼろきれをまとった小人たちは堅そうな魚の頭蓋骨もろとも切り裂かれ、熱砂の大地に沈んだ。
 小人たちの肢体がバラバラになって散乱する様子はかなりグロテスクだったが、正当防衛だと言い訳して精神を保つ。ただ、地面に落ちた黒ずんだ血のようなものが嫌な臭いを発しながら熱に焼かれて蒸発していくのは少しキツかった。

「おい、大丈夫か?」
「え、ええ……。
 それよりあんた、水の太陽と同じ力が使えるの?」
「……」

 エフィールが、困惑しながらこちらを見ている。
 彼女は気だるそうに重い動作で身体を起こした後も、こちらに疑惑の目を向けていた。

「ベレウェルでも使ってたわよね、その力。
 もしかして、あの怪物と何か関係が……」
「やめてくれ」

 その先は、聞きたくない。
 下げた視線はいまだ波打つオアシスの水面上に止まった。
 水かさの減ったオアシスに揺れる水面には、角度の影響でエフィールの姿が映っている。
 その、彼女の顔にあたる部分に、魔人特有の赤い瞳が反射していた。

「……お互い、大変ね」
「お前と一緒にするな」

 はいはい、と肩をすくめたエフィール。

 その後は、とりあえずこの魚骨の仮面族たちを埋めてあげた。
 唯一の水源に悪影響が出るのが怖いので、少し離れたサラサラの砂漠地帯に埋めることにする。
 そのときに土の杭を出す能力を使ったがうまくいかず、壊れた噴水みたいに砂がちょっとずつ湧き上がるだけだった。どうやらこの能力は土の粘度にも影響を受けるらしい。オアシス近辺の固い地面なら普段通り使えそうだが……砂漠地帯では能力に制限がかかるだろう。

 埋葬の際はエフィールも手伝ってくれた。スロウが剣を持って立つ横で手袋を掲げているのを見て、そういえばこいつがオリジナルの魔法道具持ってたんだよなと思い出した。
 埋葬を協力してくれたのは正直意外で、全員分を埋めたあとに礼を言うのも忘れてしまった。

 気が付けばもう日は傾いて、辺りはやたらと涼しくなっていた。