第九十一話 芽吹き

「――とりあえず、買うものは決まったわよね」

 砂塵が舞う市場の往来を進みながら、彼女が言った。

 影が無くなるような強い日差しの下、エフィールは何かの動物の素材を使った革袋を下げながら、これから買い揃える物品をそらんじている。

 必要なのはすべて砂漠での長旅に用いるものだ。保存の聞く干し肉や塩漬け肉。
 水は豚人族のときと同じように大量の土壺で持っていくとして、オアシスの薬師から手に入る苦薬、あと移動手段である砂魚に、舟が破損したときのための補強材に……と、ずいぶんと慣れた様子で旅の前準備を進める流浪の一族の生き残りに、スロウは困惑しながら口を開いた。

「なあ……本当にいいのか?」
「いいわよ、お金くらい。どうせ腐るほどあるんだもの。
 あの厄介だったサソリのおかげで青石が三個分もあるのよ?
 むしろ使い切れるかどうかが不安だわ」
「いや、そうじゃなくて……」

 生ぬるい水気のにおいが砂と混じるオアシスの街を「自分の庭」と言わんばかりに闊歩していたその少女は、きょとんとした顔を浮かべたあとにすぐ悟ったような顔をした。

「元の世界に帰ること?」

 スロウはややあってから首を縦に振る。
 彼女は困ったように笑いながら目線を伏せた。

「そうね……。
 気がついたの。『このままじゃ胸張って生きられなくなる』って」
 これから先の人生、ずっと自分にウソをつきながら下向いて生きることになっちゃうって気がついた。
 だから、戻らなきゃ」

 エフィールは自分で羽織った暗色のマントを確認しながらそう言った。
 オアシスの市場で入手した縫い針で器用に補修したというそのマントは、以前と変わらず彼女の身体を包んでいる。

「幸い、あたしは運が良い方だしね。
 いつどこで死んでてもおかしくなかったのに生き残っちゃったし……それにあんな辛い思いしたのになんだかんだで乗り越えられた。
 なら、きっと向こうに戻ってもやっていけるでしょ」
「でも、だからって……わざわざ殺されに行くようなものだぞ?
 やっぱりここに残った方が――」
「ダメよ。
 今ここで逃げたら、あれだけ辛い思いをしてきたことの意味がぜんぶなくなってしまう」

 こちらの言葉を遮った彼女は、そのまま続けた。

「『エーデルハイドの魔人』だからこそ――どん底に落ちたあたしだからこそ、できることが向こうにあるはず」

 彼女は背中の大弓を指でなぞる。
 このオアシスの街では装備品はすぐに汚れてしまうものだが、その光の大弓だけは特別きれいに磨かれていて、舞い上がった砂埃も寄せ付けぬほどだった。

「大丈夫よ。もう自分を犠牲にしたりはしない。
 どこかの誰かさんに『生きててほしい』なんて熱弁されちゃったしね?」

 彼女は茶目っ気のある笑みを浮かべて笑った。
 その金色の瞳に、もう以前のような曇りは無い。

「……さ、あの追放者のところに行きましょ。
 買い物のまえに舟を返してもらわなきゃ」

 憑き物が取れたような微笑みを向けてくる彼女にスロウは何も言葉を思いつくことができず、結局、その小さな背中のあとを黙ってついていくことしかできないのだった。

 ……重心が滑るような砂丘を汗とともに乗り越え、メレクウルクがいるはずの廃墟にたどり着く。

 上を見れば視界を白く染めるほどの太陽が天高く昇り、大地を焼くチリチリとした熱気のにおいを蒸発させていた。
 市場で買った安っちい盗賊のフードみたいな布切れを被り、スロウは慎重に息を吐く。
 熱々に焼けた空気を少しでも冷まそうと頭の布切れを下げ、わずかばかりの影の涼しさでやりすごそうとする。

 確かこのあたりにいるという話だったが……。
 そう思いながら廃墟をうろついていると、目的の人物はすぐに現れた。

「久しいな、同郷の者よ」
「ああ、久しぶり」

 風化した柱の陰から、くぼんだ腹をぼろぼろの外套で隠したメレクウルクがやってきて、無表情のまま片手を上げてくる。

「何よ。やけに素直に出てくるのね」
「ああ、これが最期だからな」

 彼が口にした言葉に引っかかりを覚える。
 ん? 最期?

「別れを告げに来た」

 メレクウルクはそう言って腕を伸ばしてきた。
 骨ばった骸骨みたいな手のひらの上にあったものを見て、二度見する。

「それは……」
「見ての通りだ。
 壊れてしまったよ、この腕輪は」

 メレクウルクが持っていたのは、痛覚遮断の能力を持つあの腕輪だった。

 風化が進みすぎていたのか、それとも何かの拍子で亀裂でも入ったのか……その古臭い腕輪はまさにカギの外れた手錠のごとくパックリと割れ、その断面から、身体に悪そうな金属の黒い粒子をこぼれさせていた。

「大丈夫なのか?
 痛みは? 半不死の呪いってやつは?」
「心配はいらん。
 少しも……苦しくないのだ。
 あのチリチリとした腹の痛みも、もやのかかったような頭痛も、何もしない。
 とても安らかで、心地よい」

 メレクウルクは悟ったようにポツリとつぶやく。
「ついに、この永い生にも終わりが来たらしい」

 メレクウルクはわずかばかりの笑みをこぼれさせる。
 今までに一度も見たこともなかったその笑い方で、彼の言っている別れというのが本気らしいと直感した。

「スロウ、と言ったか。
 貴様と会えたのは実に幸運だったぞ。
 おかげでまともな最期を迎えられた」

 彼はスッと手を差し出してきた。別れの握手らしい。
 本当にお別れなのかいまだに半信半疑だった自分は、黙ったまま焼けるほどの日差しの下へ手を伸ばし、メレクウルクの手を掴んでしまう。

 とても生きている人間とは思えない、骨と皮だけの冷たい手だ。
 にも関わらず力は強く、握手を解いた後のこちらの手が歪むような力強さだけが残っていた。

「紅の少女よ。貴様は……強い眼をするようになったな」
「……求めてもいなかったアドバイスのおかげでね」
「戻るのか」
「ええ」

 エフィールは焼けた砂漠に一筋の汗を流しながら、澄んだ金色の瞳を上げる。
 それを見たメレクウルクは、無表情のまま、口を開いた。

「健闘を祈る、赤目人の少女よ。
 せめて汝の生に、安らかな死があらんことを」

 ――その後はひどく事務的に舟を返してもらい、ついでに砂魚を買える場所や世話の仕方を教えてもらった。

 今までと特に変わらない距離感の対応だ。舟の状態を確認して、砂漠の旅に必要な情報をもらって……そうしててきぱきと準備を進めているとすぐに支度は終わり、いつの間にかもう終わりということになっていた。

「ではな」
「ああ」

 とても今生の別れとは思えないほど手短なあいさつを交わし、互いに背を向ける。

 あれ……こんな呆気ないもんか?

 ひょっとしたら何かの夢でも見てるんじゃないか、別れってのはただの聞き間違いだったんじゃないか、と思ったその時だった。

 ――おお、死神よ……やはり、来てくれたのですね――

 ふと、優しい花のにおいがした。

 唐突に吹き抜けたみずみずしい死の匂いに後ろを振り返ると、そこにはもう誰もいなくて――

 ただ、生温かい砂塵が、乾いた風に吹かれて散っていた。