「――――」
「……いいえ。気持ちはうれしいけど、戻るわ」
少し離れたところで、エフィールがベールを被った少女と手をつないでいた。
あの踊り子のような風体の子はたしか、マーヤと言ったか。
少しうつむいているところを見るに、もしかしたら泣いているのかもしれないと思った。
「――――」
「……たぶんあたし、この世界に残ってもやり直せないと思うの。
だからごめんね。マーヤ」
かすかに聞こえてくるエフィールの声を耳にしつつ、
部外者である俺はもう一度持ち物をチェックすることにした。
砂舟の先頭から振り返り、荷物を視認。
買い揃えた食料や薬草や道具類はちゃんときれいに積み込まれている。
数は合ってる。安定性もよし。舟旅の途中で倒れる心配はなさそうだ。
ついでに装備品にも目を通した。
自分の腕や足を、角度を変えてひねりながら確認する。
新しく揃えた衣類は、過去にオアシス近辺に現れた強大な魔物たちの素材を使っている。
砂漠の民族の技術で作ってもらった特注品だ。その強靭さは折り紙つきである。
歩いても砂が入らないという頑丈なブーツを履きなおし、慣れないにおいのする新品の上着を正した。
そうしてしばらく砂舟の先頭に座っていると、ぎし、と舟がきしむ感触がする。
見れば、エフィールが自分の隣に座ったところだった。
「お待たせ」
「もういいのか?」
「ええ、行きましょう」
エフィールは淡々とした様子だった。
うまく表情が読み取れない横顔をちらりとうかがってから、手綱を握りしめる。
目の前に群れている砂魚たちはいまかいまかと合図を待っており、少しでも手綱を振ればすぐに前進を始めるだろう。
ここ数日でこいつらを動かす練習はしてある。
今回は練習とは違って大荷物が積んであるがきっと問題はないだろう。
最後にもう一度エフィールの横顔を盗み見て、変わらず感情が読み取れないことを確認してから手綱を振ろうとした時。
「……お?」
そこで視界の端に小さな影が映る。
マーヤだった。砂舟の右舷に手をかけてこちらを見上げている。
どうやらエフィールではなく自分のほうに用があるらしい。
「俺?」と確認すると小さく頷いてきたので、こちらに掲げてきた彼女の手に触れた。
『エーフィのこと、よろしくね』
頭の中に響く不思議な声とともに、マーヤから真剣なまなざしを向けられる。
……。
……なおもこちらを見つめ続けていたマーヤに「ああ」と短く答えて、その手を離した。
砂船が動き出し、オアシスの街が遠ざかっていく。
背後をちらと振り返れば、背丈の小さな踊り子がまだ手を振っていて、
山羊頭の男は、相も変わらず、何も言わないまま少女のそばに立っていた。
「……あの串焼き、もう一度食べておきたかったわね」
オアシスの街がかすんで見えなくなったころ、エフィールが不意に口を開いた。
「買ってあるぞ。後ろにある」
「そう? じゃあ一本もらうわね」
上半身をひねり、後方に身を乗り出してガサゴソやり始めるエフィール。
それから何分もしないうちに、彼女は一本の串焼きを手に戻ってきた。
「やっぱりおいしい。冷めてるけど」
そのままモクモクと上品に串焼きを口にしていたエフィールが、
ふと食べるのを止めて、ぽつりとつぶやいた。
「また、旅が始まるわね」
――それきり、俺たちは無言で北へ進んだ。
元の世界に帰るための『塔』を目指して。
あの気持ちの悪い砂嵐はうまく避けられた。
砂魚による牽引力はやはり中々のものだったのだろう。
以前メレクウルクが言っていた通り、この砂舟のスピードであれば砂嵐を見てから避けて行くことも余裕だ。
今のところあの砂嵐を野外で体験したのは転移直後の最初の一回のみで済んでいるが、できればここを抜けるまで二度と遭遇したくなかった。この砂魚たちには少し多めにエサをやってもいいかもしれない。
糧食は日をまたぐごとに減っていく。
いくら大量に買い込んできてもいずれは尽きる。
このままどこにもたどり着けなかったら砂漠のど真ん中で野垂れ死ぬのかな、などと考えながら無音の砂漠をひたすら進み続けた。
今回の旅はとても静かだった。
隣でエフィールが身じろぎしたり弓を手入れしたりする音を聴きながら、ぼんやりと先の景色を眺める。もしかしたらデューイたちと再会する前にほんとうに野垂れ死ぬのかもしれないと、意味もなく不安に思ったりもした。
日が落ちたら砂魚たちの動きが露骨ににぶくなったので、舟から降りて休息。
腰を叩きながらたき火の準備をし、冷たい地面を温めながら糧食を取り出して食べた。
「……元の世界に帰れたら」
目線を上げると、エフィールがたき火をじっと見つめながら口を開いていた。
「一族のみんなを探そうと思ってるの」
「エーデルハイドの一族?」
「ええ。
もしかしたらマーヤみたいにどこかでひっそりと暮らしてるかもしれないじゃない?
だから、まずは探しに行ってみたいの」
ここ数日しばらく無言だったのは、ずっとこのことを考えていたのだろうか。
ずいぶんと思いつめた表情だったので「そうか……」とだけ言って息を吐き、
砂漠の夜に震えながら手をかざす。
そのまま沈黙していると、焚火を挟んで向かい側からエフィールがさらに言葉を重ねた。
「大丈夫、あんたに迷惑はかけない。
もとの世界に戻ったらあたしはすぐに消えるから」
……おそらくはこちらのことを気遣って言ったのだと思うけど、しかしその割には彼女の金色の瞳に決意のようなものも宿っていたように見えて、そのちぐはぐな印象に困惑して返事をするタイミングを見失ってしまった。
それからさらに数日が経った。
うだるような暑さと代わり映えのしない景色が続き、噴き出てくる玉のような汗も、遠い昔からすでに日常の一部に染み込んでいたような気さえしてくる。
そんな昼の炎天下で変わらず砂舟に座りながら、ぼんやりと遠くを眺めているエフィールにタイミングを見計らって話しかけた。
「一族を探すのなら」
彼女がゆっくりとこちらを向いたのを確認して、続きを話す。
「街で情報収集する必要があるはずだ。
俺なら力になれるかもしれない」
彼女も砂漠の熱さにやられていたのだろうか。
しばらくきょとんとした表情を浮かべていたが……しだいにその顔は心配そうなものに変わっていった。
「……あたしと一緒にいていいの?
元の世界に戻ったらどういう扱いを受けるか、分かるでしょ?」
「もちろんただでとは言わない。いま君に持ち掛けてるのは取引だ」
「取引?」
「そうだ」
いぶかしげにこちらをのぞき込んでくる彼女に、その取引内容を伝えた。
「君には、『外の魔物』から俺を守ってほしい。
その代わり俺は、『街の人々』から君を守れる」
――半ば放心状態に陥ったらしいエフィールが、しばらく時間を置いてから「ほんとに……?」とこちらを見上げてくる。
そんな彼女からいったん視線を外して、露骨に芝居がかった口ぶりで話し始めた。
「その代わり、たっぷり働いてもらうからな。
まず魔物との戦闘は君がメインになってもらおう。
大変だぞ~? デューイやセナのことも守ってもらうからね。
見返りとして俺は街に入るのを手助けするし、お金とかは……
出せるか分からないけど、三食分のご飯は付けよう。
それともうひとつ」
これが大事、と前置きしてからエフィールに向き直った。
「君が傷ついた時、手当てくらいはしてやれる」
……どうだ、乗るか? と声をかけ、あとは返事を待った。
きっと頭のなかでいろいろ目まぐるしく考えていたのだろう、しばらくずっとうつむいてたエフィールが、不意に涙をこぼしたところから視線を外す。
そのまま前方の景色を何とはなしに眺めていると、二の腕のあたりをこぶしでポンと叩かれる感触がした。
横を向くと、腕を伸ばしたエフィールが潤んだ目元で力強くこちらを見上げていた。
「その話、乗った」
話はまとまった。
互いに口元を緩ませながら「元の世界に戻ったあともよろしく」と一言交わし、
これから向かう先……北にあるはずの『塔』を見ようとする。
また、いつもの沈黙の時間が来るな……と思っていたら、
隣にいるエフィールが静かに首を向けてきた。
「あたしのこと、エーフィって呼んでもいいわよ」
「へいへい」
おざなりな返事をしたが、なんとなく、彼女は悪くは捉えないだろうと安心できた。
沈黙の多い旅だったが、以前よりもはるかに、居心地は良くなった気がした。
――こうして、エフィール・エーデルハイドは正式に仲間に加入することになった。
いずれデューイとセナにはうまく説明する必要があるだろうが、きっとどうにかなる。
いや、どうにかするのだ。
彼女を失うつもりはない。
……砂漠を縦断する長い旅の途中、せっかくだからとエフィールに教えを請うて
戦いの訓練をつけてもらった。
彼女ほどに戦いや生存の技術を備えている人物などそうそういない。
実際に、彼女の授業から得られるものは多かった。
その過程で、スロウはいつの間にか……かつてベレウェルに向かうまではまるで使いこなせなかったはずの光の弓矢が少し使えるようになっていたが、自分はその力は使わないでおこうと決意した。
きっといま、その役割は、彼女だけのものなのだ。
魔法道具名:アーシラロテ
エフィール・エーデルハイドが所有する大弓の魔法道具。
弓を引き絞る動作によって光波を生成し、自在に変形させることができる。
光波は時間経過で消失し、またその攻撃力も使用者の意思によって調整が可能。
はるか彼方へ光を送るその大弓は、エーデルハイドの一族が、親から子へと代々受け継ぐものである。
ルーン文字「あなただけでも生き延びて」