第百七話 雨宿り

 みずみずしい森のにおいに包まれながら、豊かな緑のなかをゆっくりと進んでいく。

 林の奥から流れてくる風は柔らかく、半袖という服装だと肌寒さすら感じさせるほどだ。
 頭上の枝葉に遮られたわずかな陽だまりに安らぎつつ、遠くから耳に届いてくる鳥の鳴き声を聞き流しながら、栗色の髪を揺らして歩く彼女の姿を視界に収めた。

 今日はセナのリハビリも兼ねている。
 どうせ急ぐ旅でもないし、景色を楽しみながら森林学院まで向かうことになった。

「足元に気をつけて」
「もー、ここはわたしの故郷ですよ?
 危なそうな場所なんて言われなくても分かってます!」

 そう言って前に出たセナが、振り返ってにこりと微笑んでくる。
 確かに、地理に関しては自分よりも彼女のほうが圧倒的に詳しいだろう。

 まだ本調子ではないとはいえ、セナ本人に任せたほうがいいのかもしれない。
「じゃあ、お願い」と伝えると、彼女は嬉しそうに頬を吊り上げた。

「それよりスロウさん。
 わたし話したいことがたくさんあるんです。
 ベレウェルで置いてけぼりにされたあと、わたしたちほんとうに大変だったんですよ?
 わたしもデューイさんも、スロウさんを探すために散り散りになって……」
「う……ごめん、いろいろ心配かけて。
 俺が転移魔法に巻き込まれたあと、みんなはどうなったんだ?」

 わずかに湿った土気色の地面をてくてくと歩きながら、長い縦耳を揺らす少女に顔を向けた。

「そうですね……スロウさんたちや水の太陽が消えたあと、ひとまず近くの街に向かうことになったんです。起こったことをちゃんと整理する必要がありましたから。
 それからデューイさんたちと相談して、パーティを一度解散してスロウさんのことを探すことになりました」
「……」

 ――迷わなかったのか、とは聞けなかった。

 あのとき自分が仲間たちと離れて転移魔法に飛び込んだのは、音叉剣で水の太陽と同じ力を使えるという事実を知ったからだ。

 あの、水の塊でできた不死身の召喚物。
 異形の魔物とそっくりな水像を生み出す謎の能力のおかげで命拾いはしたが、なにか自分が得体の知れない存在のような気がして、意図せず仲間たちに害を及ぼしてしまうのではないかと不安になった記憶がある。なんだかとても古いことのように感じるが。

 そしてその件について、セナは言及することなく続きを話しはじめた。

「デューイさんは北のほうに行って、転移魔法の被害者を探している組織を訪ねに。
 わたしは自分の故郷……セトゥムナ連合に戻って空を飛ぶ舟を使わせてもらおうって思いました。
 それで、決闘とか天樹会とかいろいろごたごたに巻き込まれてたときに、スロウさんが戻ってきたんですよ」
「ヘンリーさんは? いっしょに旅をしていた、あのジャッジ部隊の」
「ええっと、ジャッジさんはエーフィちゃん……エーデルハイドの魔人の討伐を報告する、とかで本部に戻ったみたいです。
 ……ところで、スロウさんはどうだったんですか?」

 そこで、彼女は琥珀色のきれいな瞳を向けてきた。

「俺?」
「はい」
「エフィールから聞いてたんじゃなかったっけ?
 俺たちがどうやってここまで来たのかーとか」
「スロウさん本人の口からも聞きたいんです」

 むすっとした顔を近づけて要求してくるセナに、自分は背中をのけ反らせた。

 なんだか、話を聞くだけにしては押しが強すぎる気もするけど……まあ、いいか。
 どうせ時間はたくさんある。

「じゃあ、どこから話そうか……。
 転移して目を覚ましたあと、気が付いたらあたり一面、黄金の砂漠の世界でさ。
 信じられないくらい日差しが強くて、足元の砂が熱くて……もうほんとうに、あの時はどうなることかと思ったんだ。
 でも、俺と同じように行き倒れてたエフィールを助けて……。
 ……そうだ、転移する直前に、不思議な夢を見たんだよ。
 レア・ルクレールって名乗る子どもが現れて、エフィールのこと助けるように言われて……その時に、自分の故郷の名前も初めて知ったんだ」

 改めて口にしてみると、なんとも荒唐無稽な話だと思った。

 夢の中で自分の使命を教えられて、不思議な助言を貰って。

 けれどその後にメレクウルクという同郷の追放者と出会ったことで、それがいきなり現実味を帯びてきたのだ。

「イストリア。同じ生まれの人の話だと、資源にあふれてて、自然が豊かだったって話でさ」
「じゃあ、やっぱりスロウさんって異世界から来た人だったんですね……」
「やっぱりってどういうことさ。気付いてたの?」
「だって、普通の人とは違う雰囲気がありましたもん。
 少なくとも、わたしが知っている世界とはまったく違うところから来た人なんだろうな~とは考えてました。
 まさかほんとうに異世界だとは思いませんでしたけど」

 そこで、彼女は枝葉で遮られた空を見上げた。
 ちかちかと眩しく点滅する陽光の内側には、ぼやけた雲や青い空が垣間見える。

「わたしも見てみたいなぁ……イストリア……どんな世界が広がっているんだろう……」
「いつか俺の記憶が戻って、そこに向かう手段も分かったら案内するよ」
「ほんとうですか!?
 うう、でもわたしまだ自分の里すら案内してないのに……!」

 悔しそうにうなだれるセナを見て、俺はふと思い出す。

「そういえば、セナに案内してもらう約束してたんだっけ」
「そうですよ! でも決闘とか治療とかでうやむやになっちゃってて……。
 もう、ほんとにすみません……」
「いいよそれくらい。
 じゃあ、森林学院から戻ってきたときに案内してよ。
 それかデューイと合流できたタイミングで改めて、っていうのでもいい。
 たぶんあいつもまだこの国には訪れたことないだろうし」
「いいですね! そうしましょう!
 もしデューイさんがスロウさんと会ったら、感極まって泣いちゃうんじゃないですか?」
「ええ、あいつが?」
「だって、デューイさんみたいな大きなおじさんほど号泣しがちじゃないですか?」
「そう言われると……ちょっと分かるかも」

 それか、『別に心配はしてなかったけど無事でよかった』と不器用そうにつぶやくとかもありそうだ。

 あいつのでかい背中は、気が付けば自分の脳裏に焼き付いている。
 あの豪胆な笑い声さえ聞こえてくるほどだった。

「デューイさんには、もう手紙は出してるんですよね?」
「ああ、どこかで手紙が紛失されてたりしなければ、こっちに向かって来てくれるはずだ」
「……早く会えるといいですね。
 またみんなで旅を続けたいです!」
「……ああ、俺も待ち遠しいよ」

 ……そこで、鼻先に当たったしずくに二人で足を止めた。

 いつの間にか空が暗くなっている。
 ぽつぽつと降り始めていた雨が、次第に激しいものに変わっていくのを理解して、俺たちは先を急いだ。

 セナは以前にもこうした急な雨に出くわしたことがあるらしい。
 すぐに雨宿りできる場所を見つけて、二人でそこに駆け込んだ。

 ひときわ大きな樹木の下。
 太く育った根に腰を下ろし、自分たちを包むような巨大な葉を見上げながらしばらく身を縮ませる。

「……スロウさんは、エーフィちゃんのことをどう思ってますか」

 無限にも等しい雨雫が大地を打つ音に囲まれるなか、セナが兎の縦耳を折りたたんだ状態で聞いてきた。
 雨にちょっと濡れているのもあって妙にしおらしい印象を感じたが、それは気のせいだろう。

「ああ、あいつ、悪いやつじゃないよ。
 セナも怪我を治してもらっただろ?
 ベレウェルの時はずいぶん苦労させられたけど……できれば許してやってほしいな」
「は、はい! それくらいは、もちろん!
 えっと、そうじゃなくて……スロウさんは、エーフィちゃんのこと、どういう人だと思いますか?」

 セナは、慎重に言葉を選んでるふうに見えた。

 まだエフィールのことを信用しきれてないのだろうか。
 やっぱり、一日か二日でかつて敵として戦った相手を許すのは難しいか。
 自分だって数か月をかけてあの砂漠の大陸でエフィールと和解したのだから。

「……すごいやつだと思う。
 なんていうのかな……どんな理不尽な目に遭っても前に進もうとしてるように見えてさ……かっこいいけど、でもなんか放っておけないんだよな」

 魔人事件だのなんだのと、罪人として言われている彼女だが、実際にはエフィール本人に罪はないように思う。むしろ彼女は被害者側だ。
 一族の暴走を止めようとして、一人で立ち向かって、結果的に自滅した一族の者たちの悪行をなすりつけられる形で生き延びてしまった。

 にもかかわらず、彼女は前を向いて生きようとしている。

 その強さに、惹かれる部分があるのは認めざるを得なかった。

「心配なのは、デューイと会わせたときにどう説得するかなんだ。
 あいつ、血の気が盛んだろ? 出会いがしらにエフィールに切りかかるかもしれない。
 エフィールは医術の知識もあるし、なんだかんだで頼りになるからいっしょに連れて行きたいんだけど……まあ、まだ時間はあるよね。デューイが到着する前に考えておけばいっか」
「……そうですね……」
「お、雨が止んできた。
 これぐらいの小雨なら平気そうかな。
 行こう、セナ。日が暮れる前に森林学院にたどり着かなきゃ」

 伸びをしつつ樹木の下から出て、振り返る。
 膝を抱えて座り込んだままだったセナに手を伸ばし、やがてこちらの手を取った彼女を引き上げて、また歩き始めた。

 ――やがて、それから数時間もしないうちに、森林学院へとたどり着いた。