日が落ち切ってからさらに数時間以上が経過して、ようやく空がまどろみ始めた。小鳥が鳴き出すこの時間帯は、夜明けが近いにも関わらず、日ごろから小春日和を楽しんでいた者たちにとって少し厳しい涼しさを含んでいた。
しかし、室内ではまだ夜と変わらない寒さが残っている。
「……」
神をかたどった偶像を見上げる、一人の大男がいた。
大聖堂最奥の壇上にいくつものロウソクを灯し、オレンジ色の光輪のふちで静かにたたずんでいた。
扉をそっと閉じて、静かに足を進める。上を見上げると、おびただしい量のルーン文字が浮かんでいた。濃淡な闇の中で、昼間とは比べ物にならないほど鮮明に輝いている。そして、この静寂に染まり切った大聖堂に、機械時計の回る音を刻々と響かせていた。
足元の大理石からは冷え切った空気が染み出てきて、より一層、入ってはいけない場所へ踏み込んでいる感覚をもたらす。
「……よっ」
デューイは傷一つない新品そのものの銀剣を手に、等間隔に並べられた長椅子の最前列に座っていた。鞘に納められていたそれは片手でも扱いやすい長さで、椅子に立て掛けてある曲がった大剣とはまるで違うものだった。
おそらく、渡されてからまだ時間が経っていないのだろう。
あの、手に馴染んでいない最初期の頃に感じる、手持無沙汰でぎくしゃくしているような印象を、振り返ったその背中から受けていた。
「スロウか。
なんだ、もうレオス教のやつらと話したのか?」
普段のいかつい顔つきはどこへやら。デューイは毒気を抜かれた表情でこちらを見上げていた。
まるで陰鬱な老人のようだ。ロウソクの光を遮って顔に影を落としていることも、そのイメージに拍車をかけていた。
「……いいや。故郷についての情報はいらない」
「なんだと?」
ロウソクの光が見えなくなった。
立ち上がったデューイはやっぱりでかくて、影で自分を覆ってしまうくらいだった。
それでもなお、急激に増した寒気に抗うように口を開いた。
「情報はいらないと言ったんだ。もちろん、あんたが騎士団に入る必要もない」
本気で言ってるのか、と狼狽するデューイ。
何も言わずにゆっくりと頷く。
「――何考えてやがる! これで帰れるかもしれないんだぞ!」
「それよりも大事なことなんだ」
詰め寄ってきた大男にすかさず追撃を挟み込んだ。
冗談を言っているわけではないと、向こうも気づいたようだ。
ちらりと、デューイの背後にそびえたつ神像を見上げる。
無機質かつ精巧に形作られたその像は、何も言わずこちらを見定めていた。
「何をしに来た?」
視線を、前に戻した。
「もう一度、旅を続けよう」
真っすぐに相手の目を見据えて投げかけた。
カチコチ、カチコチと、時計の音が鳴り響く。
デューイは最初こそ驚いていたものの、しかし、すぐに鼻で笑い出した。
「オレと一緒にか?
はっ、冗談はよせよ」
手を振っておどけて、大げさなジェスチャーを繰り広げるデューイ。
こちらへの視線を外して、持論を展開させる。
「振り返ってみりゃ分かるだろ? オレといれば何かと問題がついてまわることになる。
オレは厄介だぜ」
「それでもいい」
スロウは真剣だった。
突然の温度差に、向こうは目を剥いた。
まだ、夜は明けていない。ほの暗い群青色がステンドグラスからにじんでいる。
――デューイは頭を掻き、さっきまでとは打って変わって重みのある声で話し始めた。
「……お前は良くても、周りが反対する。
もう新しい装備まで支給してもらったんだ、今さら入団を断れるかよ」
彼は新品の銀剣を見やった後、椅子に立て掛けてあった断切剣を手に取る。
真っ黒で、影とほとんど同化して見えなくなっているような剣だ。
その古い大剣は、何もかもが真っ白なこの聖堂内では殊更(ことさら)に浮いていた。
「ここじゃ、冒険者としての生き方は通用しないんだ。……こんな剣、持ってたって無駄さ」
「でも、あんたはその剣を持ってるときが一番強い」
「こんなもん必要とされてない!!」
ガランガランと、長刀身の曲剣が乱雑に放られた。
一定のペースで鳴り響いていた歯車の音に、ノイズが混じる。
重苦しい金属音が響いた直後の居心地の悪さに思わず口を閉ざしてしまった。
「必要とされてないんだよ……」
それでも、機械時計の回るペースは変わらない。カチコチ、カチコチ。回り続ける。
デューイはこぶしを握り締めて、無機質な神像の前に立ち尽くすばかりだった。
――夜が明けているようだった。
周囲が明るくなっていくにつれて、ロウソクの光は弱まっているように見えた。
スロウは、腰をかがめてその放られた大剣を取る。
片手じゃ持てなくて、自身の体重をかけてようやく持ち上げる。
「デューイ」
そのひどく重い剣は、少し気を抜いてしまえば自分の方が潰されそうだった。
きっと、こんな剣を扱える人間は一人しかいない。
片手を刃の背に添えて、振り向こうとしない大男に剣を差し出した。
「――――捨てないで」
見栄も体裁も抜きにして、ただ頭を下げるしかなかった。
「……お願い」
それからどれくらい時間が経っただろう。
俯いた状態から薄く目を開けると、床に映ったデューイの影がゆっくりと手を伸ばしている。
そして――。
「――邪魔しないでください! お二人は大事な話をしてるんです!」
「へえ? 神聖な間に入るのを邪魔していたのは君じゃないか」
扉を開け放つ音とともに入ってきたのは、聖騎士を率いるアインズウォークと、彼に押し出されるセナだった。
入り口に気を取られた直後、ハッとして前に向き直ると、デューイはもう伸ばしかけた手を引き戻していた。
「……セナ、聞いてたの?」
「すみません、あの人たちを止められませんでした……」
とにかく、状況を整理しようと押し出されてきた半獣人の少女に声をかける。
申し訳なさそうに耳を垂れて謝る彼女は、どうやらここに人が入ってくるのを阻止していたらしい。
しかし、セナの努力もむなしく、聖堂内にぞろぞろと人が集まってきた。
祈りの集会の準備をしに来たらしく、騎士や教父たちが俺たちを尻目に作業をし始めた。
「まったく。デュークガルツ、その子に何かおかしなことを吹き込まれなかったか?」
「……待てよアインズ、スロウのことを疑ってるのか?」
こちらを指さしてきたアインズを見て、大男がスロウの隣に立った。
「いくら君の友人と言えど、これ以上の無礼は許されない」
仕方がないと言わんばかりに首を振るアインズ。
「もし良い行いをしようと考えているなら、どうして人の前で話さない?
本当に自分が正しいと思っているなら、みんなの前でも堂々としていられるはずだ。
何かやましいことがあるから、隠れてコソコソやってるんじゃないのかい?」
「それは……」
何も言い返せない。
分かっている、自分が異端であることは。そしておそらく、デューイも同じ側だ。
「普通」の基準に相容れない自分が「普通」の人たち相手にすぐ繰り出せるような説得材料は、残念ながら持っちゃいない。
まして、自分たちのことを正しいと信じきっている相手なら、尚更口を閉ざすしかなかった。
「……沈黙は、肯定の証と捉えるよ」
苦虫を噛み潰した。
たとえ音をかき鳴らす剣を使ったって、この人たちには届かないだろう。
無力感が肩にのしかかる。ずっと前にも経験していた感覚。
嫌な感覚だ。
先にため息をついたアインズウォークは、椅子に置かれた新品の武器を指さした。
「デュークガルツ、その銀剣を持ってきてくれないか。
君には早速、騎士団としての初仕事をやってもらいたい。
――ああ、客人については、しばらく僕が様子を見よう。もう面倒事を起こさないようにね」
……これで話はおしまい、というのか。
そんなことさせられない。必死に頭を回転させた。何か手はないか、と。
機械時計の進む音が、耳障りだった。
「さあ、早く」
いや、まだだ。まだ何かあるはずだ。
そうやって最後の悪あがきを考えていた時、唐突にその思考は遮られた。
「……デューイ?」
黙ったままでいたデューイが、こちらに向き直ってきた。
心臓がバクバクいっていた。
スロウが何も言えずに立っていると、大男は、太い腕を伸ばしてくる。
その時のデューイの複雑な表情は、きっと一生忘れないだろう。
「……悪い」
その男が顔を丸ごと覆えそうな掌で掴んだのは、黒く湾曲した大剣の柄だった。
「デュークガルツ……!?」
潰されだった剣の重みを相手に預ける。身の丈ほどもある大剣をゆっくりと持ち上げたデューイは、切っ先を静かに床へ下ろした。
「君は……故郷を捨てるつもりか!?」
一番驚いていたのは、アインズウォークの方だった。
信じられないといわんばかりに、黒い騎士にせめよる。
「アインズ」
しかし左手を上げた黒騎士は、銀色の騎士を優しく押し返した。
腕を下ろし、一線を開けて、俯いた顔をわずかに上げる。
「……お前みたいなやつになりたかった」
前に立つデューイの表情は見えなかった。
ただ、発した声は本当に落ち着いたものだった。
「義務とか責任をちゃんと果たして、周りから頼りにされてて、大切な人が何人もいるような……そういう、立派なやつになりたかった」
断切剣を背負うデューイ。
その剣は、黒い傷だらけの鎧と触れて、ガチャリと納まった。
「でも――オレはたぶん、そっち側の人間じゃない」
彼が騎士たちと距離を保って見上げたのは、時を刻み続ける機械だ。
チクタク、チクタクと、同じところをグルグル回る歯車たちを、じっと見つめている。
「どこかに根を張って、一生そこで過ごすような生き方は性に合わねえみたいなんだ。
……すまねえな」
アインズウォークは、足を動かせずにいる。
はっきりと拒絶の態度を示す弟に、狼狽しているようだった。
「でも、危ないんだぞ?」
「ああ」
「もしも死んでしまえば、僕も父さんもそれを知ることができない」
「……ああ」
「それで、それで……」
言い淀んだアインズは、腕を抱えた。
「……誰かと、結婚して、子どもを授かって。
赤ん坊を手に抱いた時のあの幸せは……本当に、何にも代えがたいものなんだ」
そういってアインズは左手の指をさすりながら、悲しそうにデューイを見た。
小手を装着していたが、その意図は簡単に理解できた。
「…………ああ」
「君にも、知ってほしい」
少しだけ俯いたデューイは、静かにアインズの目を見て、首を振った。
「…………ごめんな」
デューイは背負った断切剣の柄を握って、実の兄に答えを出した。
「オレは、旅を続けたい」
黒い騎士がそう言った瞬間、断切剣に刻まれたルーン文字がわずかに光ったような気がした。
「――逃げるというのか、デュークガルツ」
突然、よく通るしゃがれた声が入り口から聞こえてきた。
アインズの後方に視線を移す。外へと通じる扉の前に立っていたのは、豪華な衣装をまとった一人の老父だった。
「父さ……大司教様」
「よお、オヤジ」
頭を下げる聖騎士たちとは対照的に、デューイは乱暴な口調だった。
頑固そうな老人は、険しい顔を作る。
「お前には生まれ持った使命があるはずだ。その責任はどうする」
「まあ、オレには荷が重かったっつーことで」
頭を掻きながら軽い調子で答えるデューイ。
声が、震えていた。
「レオス教と騎士団は、もはやお前を受け入れぬだろう」
「もう決めちまったことだ」
下を見ながら、大男は仕方がないさと言わんばかりに笑いのけた。
豪華な衣装をまとった老父は、ただただ静かに黙っていた。
「……本当に、行ってしまうのか?」
――初めて聞いた声だった。
大男の背中越しに見ると、少しだけ、ほんの少しだけ悲しそうな老父の表情が見えた。
そして、デューイは思いがけず父と視線を合わせてしまったらしい。
腰に手を当てて、俯いていた。
――このまま旅に出るということは、つまり、仲直りのチャンスを捨てるということで。
「……親孝行できなくて、悪い」
老父が、目を伏せたのが見えた。
しわに囲まれた瞳をわずかに揺らし、そして、アインズウォークにその目を向けた。
「行かせてやれ」
「……はっ」
アインズ一瞬戸惑ったが、すぐに合図をする。
銀色の騎士たちが一斉に脇にそれて、出口への道が開かれた。
大司教は、黙ってデューイの横を通り過ぎる。
誰も動けなかった。
でも、彼が通り過ぎる瞬間に、目の前の大男がこぶしを握り締めたのに気が付いた。
「……」
デューイは黙ったまま、開かれた扉に向かって歩きだす。
剣を背負って、ゆっくりと、ゆっくりと……。
自分たちも横に並んで進んだ。
視界の端に捉えたそいつの横顔は、泣いているように見えた。
「――名もなき剣士よ!!」
突然響き渡った声に、振り返ろうとしないデューイの代わりに小さく後ろを見ると、大司教がこちらに背を向けたまま神像の前に立っていた。
「神の祝福があらんことを。」
その一言だけ。
静かだけど、確かに届く声だった。
「そうかい。
まあ、なんだ……ありがとよ」
デューイはそれだけ言って、大聖堂を出ていった。
街は、祈りの時間だった。
人々は大聖堂で行われる集会のために、家族連れで街の中心へと歩いていく。
多くの人が長い階段を昇っていく中、とある三人組だけが、周りとすれ違うようにして下っていく。
道の端っこに沿って、なるべくぶつからないようにして。
「……」
城下町まで来た頃には、もう人はほとんど残っていなかった。
見張りの騎士が数人と、猫が一匹いるだけだった。
後ろの方で、低く重厚な鐘の音が鳴り響いていた。
その鐘の音は、遠ざかっていった。
「……」
そうしてしばらく歩き続けて、目に見える人工物が足元の道路くらいしか無くなってきた頃。
ふっと、大男が後ろを振り返る。
「……ああ、クソ。
やっぱり、綺麗な街だよな……」
曇天から差し込む斜光に照らされる街は、確かに美しかった。
白銀に輝く都市は、自分たちが居なくても、やはり輝いていたのだ。
「デューイ」
「デューイさん」
「ああ……旅を続けようぜ」
真っ黒な重い大剣を背負った男は、今度こそ振り返らなかった。
「……あばよ」
人気のない道を、さらに荒野へ向かって歩いて行く。
それは、とある一日の始まりを告げる夜明けのことだった。
登録済み魔法道具
名称:断切剣
能力:あらゆる物質を絶つことのできる切れ味の永続効果
ルーン文字:「誰も歩いたことがない道へ」