第三十二話 黒騎士の祈り

 いつからか、家族間での会話が無くなっていった。

 父親はレオス教の大司教。
 兄は聖騎士団の次期団長。
 その二人のもとで育った自分。

 二人とも忙しそうだった。

 それでも、誇りに思えるほど立派な父ならば、きっと自分たちのことも大切にしてくれるだろうと、そう信じていた。

 ある日、ふと気づいた。
 父が自分を避けている、ということに。

 父が、極力自分と関わらないようにしていると、子どもながらに感づいたのである。

 あれ。
 家族ってこういうものだっけ?

 そういえば、およそ普通の人たちがするような家族団らんというものをした記憶がほとんどない。

 一度、夜風を浴びに城下町まで降りたことがあった。
 その時、小さな家の中で、両親と子どもたちが暖かいごはんを食べながら、その日起こった出来事を話して笑い合っているのを見た。

 ――世間一般での家族像と、自分のところの家族像が全く一致しない。

 家族って何だろう?

 レオス教にはこう教えられた。
 『家族を大切にしろ』と。
 そのレオス教のトップであるはずの父が、実の息子であるはずの自分を見てくれない。

 なぜだろう?

 兄であるアインズウォークは、変わらず父の愛情を受けている。
 期待と共に様々な知識を教わっているのを、遠くから見ていた。

 ――ひょっとしたら、自分の方がおかしいのではないか?

 そうだ、過去のことを思い出してみれば、心当たりのある事例などいくらでも浮かんでくる。
 「自分が悪いことをした」から、自分は相手にされていないのだ。

 きっとそうに違いない。

 何しろ父は、レオス教の大司教だ。
 間違っているのは、自分の方なのだ。

 だから、謝った。

 手紙を書いて、二人きりで話し合った。

 でも、次の日からまた同じだった。

 もう一度謝った。
 今度は別の心当たりを話した。

 何も変わらなかった。

 自分が近づこうとすればするほど、父は離れていった。

 それでも、諦めなかった。

 なぜなら知っていたのだから。

 「家族を大切にすることが、一番の幸福である」と……。

 でも、結局そんな努力が実を結ぶことはなくて。

 そういう日々が十年続いた。

 『ボクと一緒に逃げようか』

 ある日、『追放者』と呼ばれていたミラが言った。

 オレはすぐに承諾した。

 その時に自分が得てきた、ありとあらゆるものを捨ててきた。

 レオス教、騎士道精神……そして、本当の名前。

 当時アリアンナで危険物とされていた魔法道具を持ち出した。断切剣という名だった。
 新しい剣術はミラから教わった。白銀都市で習ったことは忘れた。

 しばらくの間、都市を避けて、彼女と冒険者をやっていた。

 ある日、ミラが失踪した。
 ささいなことで喧嘩をした翌日のことだった。

 別に探そうとは思わない。
 どうでもいいというわけでは無かったが、好きな時に関係を切るのも一つの自由であるはずだ。
 自分だってそうだったし、その方が気楽だ。

 それからは一人でずっと冒険者をやっていた。
 水の太陽が現れても同じで、たまに誰かとパーティーを組んだり。
 冒険者間での約束は気が向いたら守った。

 白銀都市の周辺には絶対に近寄らず、国内を転々とした。

 証明したかった。
 自分は何かを変えられると。

 ――そういう生活を続けていて、ある日、ふと気が付いた。

 オレは、四十を超えていた。

「……何も、変わらなかった」

 すでに聖堂の中はデューイとスロウの二人だけになっていた。
 静まり返った空間に西日が差し込み、冷たい風が流れてきた。

「旅を続けても、オレはのけ者だった。
 ずっと考えてた。『本当にこのままでいいのか』って。
 悩んだよ。そんで期待したんだ。今なら、家族と仲直りできるんじゃねえかって」

 開け放たれた大扉の向こう側で、日が沈んでいっていた。
 影が占める面積が、次第に多くなってゆく。

「いつか自分が望んでいたものを取り戻せるって考えたとき、嬉しくなったのは事実さ。
 オレは、笑って家族と過ごしたかった。
 でも……そこじゃあ、オレが築いてきたものは必要とされてない」

 そういって、今度は「A級」と記された冒険者証を見せてきた。
 丁寧に磨き上げられた、金色のカード。
 いっぱしの冒険者であることの印だ。

 らせん状の天井を仰ぐデューイ。
 視線の先で、無機質な機械時計が蠢いている。
 無数のルーン文字が夜空みたいに輝いて、二対の瞳に反射していた。

「オレは……旅をやめる。
 オレみたいな異常者は、心をすっかり取り替えないと、居場所を得られないんだ」

 カチリ、カチリと無数の歯車が回り続ける音がやけに大きく響いている。
 無力感をにじませる大男に、無意識に首を横に振っている自分がいた。

「これからは真面目に生きるよ。
 酒はやめる、馬鹿やんのもやめる。
 あいつらの言いなりでも構わない。
 もう……もう、それでいい」

 違う。

 こんなのは、望んでない。

「――聖騎士団に入団することを条件に、レオス教のやつらに、お前の剣についての情報を提供してくれるように取引した」
「ちょっと待てよ……」
「たぶん明日か、明後日にそいつらから連絡が来るはずだ。
 お前はそれに従って……」
「ちょっと待てよ!!」

 淡々と今後のことを話そうとしているデューイに、口を挟まずになどいられない。

「あんたそれで納得できるのかよ!?
 向こうにだって落ち度があるかもしれないじゃないか!
 なんでデューイだけが――!」
「よく聞け、スロウ。
 オレたちには、時間を積み重ねてきたことへの責任があるんだ」

 静かに断言されて、思わず口をつぐんでしまった。

「いつまでも人のせいには、できねえんだ」

 ダメ出しするように続けられて、目をそらす。
 その時視界に入ってきた、真っ赤に差し込む夕焼けが眩しかった。

「オレにはもう変えられないが、お前は違う。
 お前には帰る場所がある。どこかはまだ分からねえが、きっとあるはずだ。
 探し続けろ」

 視線を上げることはできなかった。
 見るべき場所が分からなくてうつむいた時、デューイの黒い鎧に無数の傷跡があることに、そこで初めて気が付いた。

「そんでよ、もしそこでずっと待っていてくれたのが、お前の本当の『家族』だったら――それは本当に貴重なものなんだ」

 目の前の黒騎士は、床に片膝をつく。
 子どもを見上げるみたいに弱く笑ったあと、まるで神に祈る銀騎士のように、頭を垂れて、絞り出した。

「……無くさないでほしい」

 きっとこれが最後だったのだろう。
 黒騎士は、一人の青年に祈りを捧げていた。
 壇上の、神をかたどった偶像に背を向けて。

「……お前との旅、結構楽しかったぜ。
 たまには顔出しに来いよ」

 ――デューイがそう言って去ったことに気付いたのは、後のことだった。

 スロウはただただ愕然として、目の前が真っ暗になっていた。