駄々をこねる少年に言い聞かせるように話しながらふと目線を上げて、言葉を失った。
ボロボロの路地。その影にうっすらと立っていた、小さな家。
――その中で、剣を抱いて眠る子どもがいた。
体中のいたるところに切り傷が残り、今まさに、オレンジ色の刀身に触れて新しい傷を作っている。血も流れているのに、その子は剣を離そうとしない。
呆気に取られて腕の力が緩み、盗みを働いた少年が抜け出してしまった。
逃げるのかと身構えるが、彼は剣を抱える子のところに近寄って手当をし始める。
……兄弟、だろうか?
魔法道具であるはずの白いローブの袖を引きちぎって、包帯替わりに巻いていた。
周りを見渡してみる。この街で見てきたどの家屋よりもボロボロの廃墟で、今にも崩れ落ちそうだ。一つしかない部屋の隅はすでにがれきと化しており、凶悪なまでに尖った建材がほうほうに飛び出していた。
崩壊の恐怖を抑えて一歩踏み出すと、途端に春のような温もりを感じる。
優しくて、暖かくて、思わず安心してしまうような空気感――。
――それが、あのオレンジ色の刀身から発せられていることに、ようやく気が付いた。
「…………それが、必要なのかい?」
手当を続ける少年に近寄り、盗まれた油壷を指さした。
彼はゆっくりと頷いた。油壷の魔法道具を、スロウから見えない位置まで引き寄せている。
返すつもりはないらしい。
「……はぁ、分かった。あげるよ」
盗みをとがめる気も失せてしまった。
あの油壺はけっこうきれいな外見だから、少なくとも金にはなるだろう。好きにすればいい。
……ついでに、土壁を生成する能力を応用して、剣を覆う箱を作ってあげた。
固定された道具箱みたいなそれにいくつも穴を空けて、温もりが流れ出るようにする。
上面だけが丸ごと空いているから、必要な時はすぐに取り出せるはずだ。
さて、戻るか。
音叉剣を腰に差して背中を向けたとき、後ろから少年がすそをつかんできた。
「何?」
「……」
そのまま立ち止まっていると、少年はおもむろに部屋の隅へ行き、がれきの隙間へ手を突っ込んだ。
崩れて挟まれないかとハラハラしていると、彼は隙間から何かを取り出したらしい。両手でそれを確認した少年は、またスロウのところに近寄ってくる。
「これ」
――差し出されたのは、汚れた腕輪だった。
何をどうしたらこうなるのか。ボロボロで、泥がこびりついた金属製のものだ。風化も進んでいるらしい。
ざらりとした表面をこすると、かろうじてルーン文字があることが分かった。
「これも魔法道具だけど、いいの?」
「……使い方が分からないから」
そう言って、少年は首をかしげた。
「持ってても仕方ないでしょ?」
…………。
「……うん、そうだよね」
しゃがみこんで、その子の頭を撫でてあげた。
「君は、とても勇気のある子だね」
照れくさそうに下を向いた少年にお礼をいい、わずかながら硬貨を渡して、スロウは仲間のところへ戻っていった。
「――ここにはエーデルハイドの魔人はいません。立ち寄ってもいなかったようです。
先を急ぎましょう」
そうして、四人は犯罪者の街をあとにした。
異臭の漂う廃墟みたいな街に背を向けて、再び湿地帯へと足を踏み入れる。
西へ、西へと……。
スロウは黙ったまま、三人の後をついていく。
「結局……あの街って何だったんでしょうね」
「さあな。犯罪者どもが住み着いたか、それかベレウェルが滅んで住人たちがとり残されたか。
どっちかだろうな」
デューイ達がそんな話をしているのを、上の空で聞いていた。
それから数日の間、移動を続けた。
西へ進むにつれて、足元に広がっていた湿地帯がより自然に近い状態に変わっていった。
沼地に生息するのであろう昆虫やら植物やらが増えてきて、人がいた形跡はどんどん少なくなってくる。途中で見つけた集落の跡地も、ほどんどが草や泥に覆われていた。
その間、一行はいつも通りのスケジュールで動いていた。
移動、特訓、キャンプ、就寝――。
いつの間にかルーティンのようなものが出来上がって、全員がこの非日常の旅にいくらかの日常性のようなものを感じ始めていたころに、スロウだけが普段と違うことをするようになった。
未練がましく弓を練習するのを止めて、料理を手伝ったあとはただただ考え事をする……。
腕に巻き付けたチェーン付きのレンズをこすりながら……。
仲間たちは心配そうに見ていたが、三人で何らかの合意でもあったのかもしれない、向こうから干渉してくることはなく、そっとしておいてくれた。
そんな状態が二、三日続いたころだった。
スロウは、いつも通り特訓に向かおうとする彼女に声をかけた。
「セナ。ボウガンの練習はどう? 上達した?」
「え? えっと、はい。
前よりは上手くなってる、と思います……」
「そっか」
気まずそうに目をそらすセナ。
そりゃあ、気まずいだろう。
あまり会話も無かったというのに、いきなり声をかけられたのだから。
しかもよくよく考えれば特訓するのはこれからだし、こんな質問をするのもおかしかったかもしれない。
それでも、本題に入るきっかけにさえなれば良かった。
スロウは、腕に巻き付けたチェーンを外した。
「――この魔法道具は、君が持つべきだ」
腕を伸ばして片眼鏡の魔法道具を差し出す。
彼女は困惑しながらも、ぶら下げられたレンズが落ちるのを危惧してとりあえず両手を下に合わせている。
……本当にこれでいいんだろうか?
突如湧き上がった不安に一瞬だけ手が止まったが、思い切って渡してしまった。
ぶら下げたレンズを彼女の手のひらに乗せ、その上にチェーン部分をそっと置いて――手を離す。
「いいんですか?」
「……俺には、きっと使いこなしてあげられない。
セナならそれでもっと力を伸ばせると思う」
そう言って、諦めるように息を吐いた。
不器用な自分には、結局これくらいしかできない。
これが正しいことなのか、分からないけど。
「……だから、スロウさんはついてきちゃダメなのに」
「え?」
ふっと視線を上げると、彼女の口は優しく吊り上がっていて、「なんでもありません」と返ってきた。
「スロウさん」
「うん」
「この力は、あなたのために使いますから」
そう言って彼女は、柔らかくて、けどどこか意志の強そうな瞳を浮かべて、自分の特訓へと向かっていったのだった。
「なあ、デューイ」
「ん?」
セナと別れたあと、野営地まで戻ってきて黒い騎士に話しかける。
目の前の大男は、いつもと変わらない具材を入れて、いつもと変わらないやり方で鍋をかき混ぜていた。
「お前、師匠から剣を教わったって言ってたよな」
「……おお」
「それ、俺にも教えてくれないかな」
顔を上げた黒騎士に対し、スロウはゆっくりと、頭を下げた。
「デューイ。
俺を、弟子にしてください」