第七十話 転機

 そいつを目撃したのは、今日も狩りに参加しようと井戸の前に集まったときだった。

 常連の豚人族が集まる中、一人だけ突出して背の高い男がいたのである。
 豚人族の者ではない。転移してから最初に出会ったあの魚骨の仮面族とも違う。

 間違いなくスロウ達と同じ――人間だった。

 穴の空いたぼろぼろの外套で身を包み、やや猫背ぎみで佇んでいる。
 背を向けているためにその表情を見ることはかなわないが、穴だらけの外套に垣間見える手足は異様に長く感じた。まるで歪な巨人のようで、どこか威圧感を感じずにはいられない。
 加えて外套の裏に引きずってるのは、人を簡単に真っ二つにできそうな大きな斧だった。

 正直怖かった。
 斧なんて完全に抜き身だし、その刃には何かしらの生物の血の跡が幾重にも重なって塗りつぶされているような、ひどい汚れ方をしていた。

 そして何より、まとっているオーラが尋常のものではない。

 その歪な巨体からは常に飢えた獣のような緊張感が滲みだしており、嫌でも不安が駆り立てられる。迂闊に近寄りがたい重々しい雰囲気を醸し出しながら、実に緩慢な動きで周囲を見渡す……まさに化け物の挙動だった。
 どこか不気味で、いつ襲い掛かってくるかも分からぬ異質さに、警戒心を抱かずにはいられなかった。

「あいつ……かなり強いわよ」

 見れば、エフィールも鋭い目を向けている。

「分かるのか」
「あんなに殺意むき出しにしてたら誰だって分かるわよ」

 その白い頬に、一筋の冷や汗が流れるのをスロウは目撃した。

 いや、エフィールの言う通り、確かにあの男の周辺にはヤバそうな雰囲気がプンプン漂っている。
 なんというか、身体中の細胞が危険信号を出しているような感覚がするのだ。
 生物として本能的に避けたい、と思ってしまう感じ。

 ……見れば、豚人族も距離を置いているのが明らかだ。

 初めて遭遇した、同じ人間。
 なのに全然嬉しくない。

 ――しばらく様子を見ていたが、さらに厄介な事態に気が付いた。

「……あいつも狩りに参加するのか……?」

 集団で狩場へと進み始めてから、ずっとあいつがついてきている。
 先頭が豚人族の集団、少し後ろにスロウとエフィール、さらに後ろに例の男という順番だ。
 位置取り的に自分たちが一番危険な気がするのは気のせいではないだろう。

 慎重に後ろの様子を伺いながら、エフィールに話しかけた。

「なあ、もし襲いかかってきたら、勝てると思うか?」
「……あたしならたぶん勝てると思う。でも……」
「でも?」
「無傷で倒すのはムリ」

 マジかよ。
 じゃあ、相当強くないか?

 ……このエーデルハイドの魔人にそこまで言わしめるのなら、どれだけ警戒してもしすぎることはない。

 スロウは無言で、エフィールに黄金剣を渡す。
 一応、自分も音叉剣で同じ能力が使えるから、もし本当に危なくなったら二人でこの魔法道具を使うことにする。
 しかし、これは本当に最後の手段だ。下手をしたら豚人族も巻き込んでしまうかもしれない。
 最悪あの集落にはいられなくなる可能性があるが……いや、どれだけ警戒してもしすぎることはないと感じたばかりだろう。命のほうが大事だ。

 そうしてチラチラと後ろを見ながら歩いていたが、結局やつは襲い掛かってくることもなく、とりあえず目標の狩場までは到達できたのだった。

 謎の男の戦いぶりは、異常だった。

 まるで獣のようだった。
 人間など簡単に真っ二つにできそうな大きな斧を手に、ただただ力任せに敵を叩き潰す。
 もはや技術もへったくれもない。

 今まで必死に抑えていた何かを全て吹き飛ばすかのように暴れまわる姿に、もはや恐怖を通り越してドン引きしていた。
 砂の中を泳いでるやつらはエフィールですら仕留められないのに、この見るからにヤバそうな男は大斧を振りかざして地面ごとぶった切っている。

 背後から別の砂魚が噛みついたが、本人は獣みたいにわめきながらそいつを引きはがし、斧を叩きつける。傷を負うことすら意に介さない狂暴っぷりだ。一体何をしてきたらあんなふうになるんだろうか? 狂戦士バーサーカー、という言葉はこいつのためにあるんじゃないかと思うほどだった。

 理性の欠片も感じられないその様子に、スロウ達はおろか豚人族でさえも、みな恐れおののいていた。

「あっ」

 スロウはそこで、自分に飛び掛かってきた砂魚に気付かずに転倒してしまう。
 よそ見しすぎた。
 間髪入れずに再度背中から向かってきたその一匹はカウンターで切り伏せたが、今までずっとポケットに感じていた重みがなくなっていることに気付く。

 どうやら転んだ勢いで腕輪の魔法道具が落ちたらしい。
 慌てて辺りを見回すと、すぐにそれは見つかった。

 急いで錆びた腕輪を拾い上げる。地面に落ちたせいで一部分だけが熱くなっていた。

 結局一度も使ったことない魔法道具を手にしたまま、この腕輪もせめて能力が分かればな……と顔を上げた瞬間。

 背筋が凍り付いた。

 ――あのヤバそうな男が、じっとこちらを見ていたのだ。

 砂魚の血と肉片にまみれ、汚れ切った斧をぶら下げたまま、じっと、こちらを見つめて立っている。

 一切、微動だにせず、立っている。

「……え……」

 エフィールの方を見る余裕すらなかった。
 スロウはまるで捕食者に見つめられた被食者のように、釘付けにされる。

 何かマズいことをしたか? 黄金剣? 使うべき? エフィールは――

 混乱する思考で目の前の出来事がうまく処理できず、気が付けば謎の男は、一歩、二歩と歩いたあとに徐々に足を速めて――そして全力疾走でこちらに向かっていた。

「ひ、ひぃぃ!?」

 逃げようとしたが、あまりの恐怖に足がもつれてダメだった。
 気が付いた瞬間にはすでに眼前にその歪な巨体が立っていて、スロウの両肩をがっしりと掴んでゆさぶっていた。

「――! ――!?」
「ちょっ……いや、言葉分からない、分からないです!」

 間近で見るそいつの顔は、不気味だった。
 落ちくぼんだ瞳に、死人のような形相。
 めちゃくちゃ怖かった。

 乱暴に揺さぶられ、知らない言語でまくしたててくる男に、こちらも「ひえぇ!」とか「ひあぁ」とわけの分からない声を出すことしかできない。

 殺される……。

 と思っていたら、次の瞬間に信じられないことが起こった。

その腕輪を渡せ・・・・・・・!!」

 唐突に理解できる言葉が耳に響いてきて、目をひん剥いた。

 聞き間違いかと思ったが、そいつはやはり、自分たちが話しているのと同じ言語で叫んでいた。

「異大陸語なら分かるだろう!?
 早く、渡せ!!」
「は、はいぃ!!」

 ほとんど投げ捨てるようにして手放した腕輪を、その男は見苦しく這いつくばって拾う。

 そうしてまるで乞食のように腕輪を拾い上げ、迷いもせずそれを自身の左腕にはめた謎の男は突如として膝から崩れ落ち、そして――嗚咽を漏らし始めた。

「あ、ああ、あああぁぁぁ……」
「な、なんなんだ一体……」
「スロウ!! 大丈夫!?」

 見ると、エフィールが駆け寄ってきてくれていた。
 心臓がバクバクいっているのを感じながら一歩二歩と後ろに下がる。

「ケガは!?」
「いや、平気――」
「後ろにいて!」

 赤い髪の少女は弓を構えたままスロウの前に立ち、這いつくばる謎の男に金色の矢先を向けていた。
 ……そういえばさっき初めてこいつに名前を呼ばれた気がするな。

 辺りを見回せば豚人族たちは我関せずと狩猟を続けながらも、時々様子をうかがうように遠くからこちらをじっと見ている。
 それを見て、ああ、こういうのはやっぱどこでも同じなんだなと、頭の片隅で思った。

 謎の男は、しばらくそのままうずくまっていた。身長差のおかげでエフィール越しでも謎の男の姿を確認しつづけることができた。

 そいつはしばらく乞食みたいに四つん這いになっていたが、おもむろに上を向いて目を閉じ、息を吸って、吐いて……と、ただただ呼吸に集中し始める。その様子からは何かを深く味わっているような印象を受けた。

 やがて、その開かれた双眸はゆっくりとスロウに向けられた。

 緑色の目だった。目のまわりが落ちくぼんでいて、不気味で、精気がなく……しかしその中には、先ほどと違ってわずかな安らぎが見えるように感じた。
 さっきまでの飢えた獣のような鋭いオーラも、心なしか丸くなっている。

 彼の緑色の目はスロウの頭の先から下へと遷移し――やがて、スロウが手に持つ魔法道具で視線が止まった。

「……その剣……」

 音叉剣のことらしい。
 ほんのわずかな沈黙の後、彼はスロウの目を見て、こう言った。

「――貴様、イストリアの者か?」

 なっ……。

 全身に電撃が走った。

 瞬間、脳裏に、夢の中で出会った少女の言葉が再生される。

『スロウは、イストリアに帰らないといけないでしょ?』

 ――直感した。
 自分は確かに、故郷へ近づいていると。

「あなたは、何者ですか?」

 錆びた腕輪を身につけた謎の男は、幽霊みたいにゆらりと立ち上がって、言った。

「――我が名は、メレクウルク。
 かつてイストリアで罪を犯し、この果ての世界へと追いやられた、
 哀れな『追放者』の一人だよ」