かつて、エーデルハイドの一族には故郷がなかった。
みんなと一緒に各地を流浪する日々を送り続け、
どこかに居を構えたことは一度もなかった。
『どうしてずっと旅をしているの?』
あたしは気になって尋ねた。
大人たちはこう言った。
『たくさんの人たちを助けるためだよ』
そして同時に、こうも教えてくれた。
『エフィール、傷ついた人を見かけたら助けてあげなさい。
それはいつか、きっと自分のところに返ってくるから』
……みんな、とても優しい人たちだった。
両親のいない自分のことを、みんなが大切にしてくれる。
腕に大きな怪我を負ったときなんか、一族総出で治してくれた。
その陽だまりのような安心感に触れて、あたしは、教えられた言いつけを守って生きようと子どもながらに決心していた。
――転機が訪れたのは、水の太陽が現れてからだ。
周りにいた大人たちが言っていた。
『これから、忙しくなるね』と。
いわく、一族の力を必要とする人が増えるというのだ。
『……大丈夫、きっと私たちの行いは報われるから』
その翌日、みんなは大弓の魔法道具を与えてくれた。
当時のあたしには大きすぎる光の弓を手渡されて、ひどく困惑したのを覚えている。
どんな反応をしていいか分からずにいた自分のことをみんなが優しく撫でてくれていた。
……やがて、大人たちはよく外に出ていくようになった。
商人たちの護衛だけでなく魔物の討伐にも行っているのだと、誰かが教えてくれた。
でも、日数が経つに連れて、
外から帰ってくる者たちの数は少しずつ減っていった。
そうして月日が経って、十代になろうかという頃。
あたしは難しい顔をしたみんなに連れられて、魔物から助けた村に行った。
『――せめて包帯とか、薬をください。
このままじゃ戦える者がいなくなってしまう』
『でも、私たちにも生活がなぁ……』
『死なずに済んだだけマシでしょう!?』
そこでのみんなの会話はよくわからなかった。
でもなんとなく、途中から空気が悪くなってきたことだけは覚えている。
『分かってください、助けた恩があるでしょう?』
『でも、これからも生きていかなきゃならないし……』
『お願いします、他の人たちを助けられなくなってしまいます』
『でも、私たちには関係ないし……』
『お願いです、私たちを助けてください』
『でも……』
似たような会話が、いくつかの村で続けて起きて、
やがて、大人たちの一人がポツリと言った。
『……あなたは、私からいくつ奪えば気が済むんですか?』
それから数年かけて、徐々に一族の間に漂う雰囲気が変わり始めるのを感じていた。
優しかったはずの同胞たちから笑顔が消え、妙にピリピリした緊張感を醸し出すようになった。
やがて、『一族の中に暗殺を行っている者がいる』という噂が流れ始め――
――気が付いたら、みんながその悪事に加担するようになっていた。
自分を育ててくれた人たちはこう言った。
『自分たちの故郷が欲しい』
『誰にもなにも奪われることのない……
怯えずに安心して暮らせる場所を手に入れたい』
『そのために、ぜんぶ利用してやるんだ』
『魔物に人を殺させて、そのあと私たちが適度に倒して、
そうして自分たちの居場所を作るんだ』
『――今まで助けた分は、返してもらわなければ』
そう言って、彼らは水の太陽討伐を掲げた者たちを殺し続けた。
人が魔物に襲われるのをひそかに願いつつ、魔物退治の功績を独り占め、
そして外部の誰にも知られることなく「邪魔者」を排除していった。
あたしは、それが正しいことなのかどうしても分からなくて、結局なにも言えなかった。
……本当に、これでいいんだろうか?
最近やたらと多くなってきた葬式で、居なくなった家族たちを見送りながらそう思った。
そして、研究所の襲撃――のちに「魔人事件」とされるその日――
あたしは初めて、その白か黒か分からない「お仕事」に参加した。
理由はよく覚えていない。ただ、仲間たちに置いて行かれるような焦りがあった気がする。
具体的な内容を知らないまま『あたしも手伝う』と言って、『ああ、うん』と曖昧な返事を返されたのがきっかけだった。
殺気立った大人たちに混じって目的の場所に向かい――
そしてレオス教の聖騎士や、研究者らしき人たち、そしてたくさんの魔法道具がある施設にたどり着いた。
一族は何も言わず、そこにいた人々を皆殺しにし始めた。
あたしは、その時初めて、
大人たちに矢を向けた。
この時にあたしは魔人になった。
研究所にあった、水の太陽がもたらすという液体を飲み、
重力魔法を使って一族による虐殺を止めようとした。
同時に、研究所の様々な人たちから『これを役立てて』と数多くの魔法道具を手渡され、あたしはそれで戦った。そのおかげでひとりでも一族みんなと渡り合えるようになった。
『お前まで……私たちに刃を向けるのか』
見知った顔の一人が、愕然として呟く。
『今までたくさん、世話してやったのに』
『…………おねがい、止まって。
今ならまだ間に合うから』
あたしは続けた『エーデルハイドの一族はみんな仲間……そうでしょ?』
すると、かつてあたしの怪我を癒してくれた一人が、
今まで見せたことのない顔でこう言った。
『裏切り者め。
ぜんぶお前のせいだ、消えてしまえ』
『…………』
――ほんの少し光の矢先が下がった隙に、一族のひとりが駆け出した気がする。
『自分ひとりだけたくさん持ちやがって、俺たちにもよこせ!』
『……待て、その魔法道具はダメだ!!』
とある研究員の制止の声を振り切って、一族のひとりが鎌の形をした魔法道具に触れた瞬間。
――辺り一帯にすさまじい斬撃の嵐が吹き荒れた。
研究所全体を覆うほどの範囲に、数千、数万もの真空刃が走るのを認識した直後、あたしは誰かにかばわれていて――
気が付いたら、周りには死体がたくさん転がっていた。
こうして、何が何だか分からないままあたしはひとり生き残った。
あたしは傷ついた腕を抱えながら、逃げた。
遠くから聖騎士がやってくるのを見て……
誰かからもらった魔法道具を抱えて、逃げた。
とつぜん、何かが――世界中のあらゆる物事が急に怖くなってきて、とにかく、誰もいないところへ向かって逃げ続けた。
ある日、聖騎士から矢を撃たれた。
以前魔物から助けたはずの街に入ると指名手配されていて、矢の刺さった左足を引きずりながら叫んだ。
『なんで!? 助けたのに!』
『エーデルハイドの魔人め、おとなしく成敗されろ!』
あたしは、街の中で助けを求めた。
でも一人も応えてくれなくて、やむなく重力魔法で街の外へ逃げ延びた。
誰かにあげた分は返ってくるんじゃなかったの?
……自分の左足から血が流れ出ていく光景と、鈍くなっていく足先の感覚に急に怖くなってきて、仕方なく、あたしは杭の魔法道具を自分の左足に打ち込んだ。
――すさまじい激痛。
傷はみるみる塞がっていった。
でも、そこには耐えがたい苦痛と気だるさが残って、
とつぜん自分がみじめになってきて、
泣きたくなって、
……でも誰かに自分の声を聞かれるのが恐ろしくて……
それでも、その言葉を口にせずにはいられなかった。
『……だれか……たすけて……』
――それから二年が経って、あたしは変わらず一人でした。
夜。誰もいない森の中で、一人で自分の腕に包帯を巻いているとき。
そのときの、あの感覚は……たびたび浴びせられるどんな罵声よりも深く心を傷つけた。
……自分には、生きる価値すらないのかと。
とある村が、魔物に襲われていた。
阿鼻叫喚の地獄絵図になっているのを見て、あたしは笑った。
いい気味だわ!
他人を平気で見捨てるような、そんな愚か者なんて死んで当然よ!
せいぜい後悔すればいいわ!
後悔、すれば――っ!
そのとき、腕にけがをして泣いている女の子が目に入って――……
――――あたしは、魔物を倒してそのまま逃げた。
……もう、いい……。
傷のついた醜い体に、杭を打ち込む。
全身を駆け巡る激痛。
そして泥のように沈殿した気だるさを感じながら、黙って前を向いた。
……もう誰にも認めてもらわなくていい。
せめて……
せめてあたしみたいな人間が、二度と「この世」に現れなくていいように――
『エフィール・エーデルハイド! ついに見つけましたよ!』
まだだ、まだ死ねない。
まだ何も残してないんだ。
まだ……。
『お前みたいに壊すだけのやつとは違う』
……そんな風に言わないでよ。あたしだってちゃんと生きたかった。
あたしの努力をなにも知らないくせに。
でも、そういって仲間を守ろうとするあいつの姿が眩しくて……。
羨ましくて……。
『――じゃあ、試してあげましょうか』
「……――それで、あんたたちのこと殺すって言ったのよ」
エフィールはそう言って、視線を落とした。
沈み始めた夕焼けの淵で、彼女は影を落としたまま、目じりを痒そうにこすっていた。
「ベレウェルに向かうまでに、何度も考え直したわ。
どうして殺すなんて言っちゃったんだろう、こんなことして何になるんだろうって」
「――でも後戻りなんてできないじゃない。もう話は進んでたんだもの。
あんたたちを勝手に脅しておいて自分一人だけ逃げるなんてできなかったのよ」
「だったら、せめて、あんたみたいなやつに黄金剣を渡してあげようって。
でも普通に渡そうとしたって無理だから『最期まで悪者でいよう』って。
あたしみたいなクズでも誰かに戦闘の経験を積ませることくらいはできるだろうって」
「それで『終わり』にしようって、思ってたのに……」
エフィールは、砂のこびりついた手首でなにもない目じりをぬぐい……
もう一度ぬぐって、うつむいたまま、制御のきかない頬筋で口をうごかしていた。
「なんで、あたしなんかのこと助けちゃうのよ……ばか……っ」
彼女は声にならない声でそう言いきると、金色の目を遮って玉のような涙を溢れ出させた。
エフィール・エーデルハイドは、やがて子どもみたいにわんわん泣き出して……
一晩中ずっと、声をあげて泣いていた。